沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流 第42回 特別編① 「空手は近世に形成された沖縄固有の武術」(沖縄空手アカデミー・田名真之館長の講演から)

ジャーナリスト
柳原滋雄

 沖縄空手の学術研究を推進する沖縄県主催の1回目の「沖縄空手アカデミー」が開催されたのは昨年10月。全6回の予定で、すでに3回分が終了している。
 1回目のテーマとなったのは「近世琉球の空手関連史料」で、空手の発祥に関わる史料がほとんど残されていない近世時代(=日本の江戸時代に相当)の史料について、沖縄県立博物館・美術館の田名真之(だな・まさゆき 1950-)館長が解説する興味深い内容となった。今回はその概要を紹介する。

空手に関する多くの間違った定説

 田名館長は、もともとは那覇市職員。その後、複数の地元大学教授などを務めた後現職に至る。首里士族の家系で知られる田名家は600年以上の歴史をもつ旧家で、館長自身、歴史の著作も数多い。
 田名氏は冒頭、沖縄空手について一般に喧伝されている定説について、実際の史実と異なる言説が今も流れている現状を指摘した。具体的には、

(1)沖縄で空手が発達したのは薩摩に攻められて武器を奪われたからという俗説
(2)琉球王国は軍隊のない平和な国だったので徒手空拳の武術が発達したといった説

などだ。 
 歴史上の史料を紐解けば、1609年の薩摩侵攻以降、沖縄で武器の所持が完全に禁止された事実はなく、禁止されたのは新たな武器を持つことであり、それまで所持していた刀や弓、槍などを持つことは許されたと述べた。
 さらに沖縄に軍隊がなく非武装だったという説も真実ではなく、頻発する海賊などに対処するため琉球には軍事力はあったとし、日本から輸入した中古の刀や槍を東南アジア諸国に売りさばく専門商人すらいたと説明した。
 その上で、近世における空手にまつわる史料を順次紹介していった。

「沖縄アカデミー」を伝える新聞記事(『琉球新報』2019年10月11日付)

 最初に紹介したのは1778年に残された『阿嘉直識(あか・ちょくしき)遺言書』で、これは中から上クラスの琉球士族であった阿嘉が自身の子に残した遺言書で、その中に士族として身に付けるべき教養、鍛錬すべき武芸などが書かれている。
 そこでは漢学や和学に通じるとともに、武芸においてはケガをしない程度に「示現流」(=薩摩の剣術)を稽古することを勧め、さらに「からむとう」と「やはら」については稽古には及ばない旨指南している。
 ここでいう「やはら」が日本本土で当時存在した古流柔術(=柔道の前身武術)を指すことは明らかであろう。問題は「からむとう」の語だ。
 武術に並列して述べられたこの語が何を指すのか。いわゆる現在の空手の源流武術を指すのかどうかが注目されるが、田名館長の説明は以下のようなものだった。

 沖縄では唐(とう)という言い方はするが、唐(から)はなかなか使わない。『から』は本土で使われる言葉であって、『からむとう』がそのまま空手を意味するわけではないと思う。

 この「からむとう」については「唐無刀」や「唐舞闘」、さらに「唐武道」を当てる説などさまざまな解釈がある。
 さらに田名氏は『中山伝信録』(1719年)を紹介。琉球語の項で、こぶしで打つ・突くことを「ティツクン」と記した記述があることに言及した。

空手の源流武術を遡れるのは1700年代まで

2017年3月に開館した〝沖縄空手の殿堂〟「沖縄空手会館」(豊見城市)

 加えて1700~1800年代の3点の史料が取り上げられた。
 一つは『薩遊紀行』(1801年)で、薩摩を訪問した肥後藩士(熊本県)が、琉球駐在経験をもつ薩摩藩士から聞きとりした琉球事情などを日記形式で記した記録だ。そのなかに当時の琉球における武術状況が盛り込まれている。記述されたのは1801年だが、実際に薩摩藩士が琉球に滞在したのは1700年代後半と見られる。
 この史料の中で、薩摩藩士の目から見た琉球武術について、「剣術ややわらの稽古は手ぬるきものなり」との記載に続き、「ただ突手に妙を得たり」と記し、具体的に「手つくみ」と記載されている。
 薩摩藩士が琉球在勤の折、「手つくみ」の上手な者に瓦を割らせたところ、7枚重ねて6枚まで割ったという記載もある。さらに人の顔を突かせたら「そげる」といった記述、さらに上手な者は「指を伸ばして突く」といういわゆる空手の〝貫手〟を表現したと思われる箇所がある。
 この史料の該当箇所を指して、田名氏は「空手を指すものだろうと思う」と語った。
 さらに奄美大島で1850年代に書かれた『南島雑話』では、巻き藁を突く場面やかわら割の挿し絵がある。田名氏はもともと士族の間にしかなかったと思われる空手の原型が、地方の島で伝わっていることが「不思議に思われる」と感想をもらした。
 続けて紹介されたのが有名な『大島筆記』(1763年)だ。琉球から薩摩に向かった官船が暴風に遭い、土佐藩の大島浦(現在の高知県宿毛市)に漂着した。その際、土佐の儒学者が船員らに事情聴取した記録が『大島筆記』である。その際船員が、数年前に中国から拳法の使い手が琉球にやってきた際の様子が語られている。
 公相君と称する中国人は痩せた体格にもかかわらず、片手を乳の横に引き、片手および足蹴りを使って、力の強い者を倒したという証言だ。
 ここでは「組合術」と表現されているが、上記の「からむとう」「手つくみ」「組合術」はいずれもほぼ同時代における記載ながら相互の関連性は明らかではない。
 田名氏はそれらの史料を説明した上で、『唐手』の記載が1800年代半ば以降の史料に初めて登場することを紹介した。
 最後に田名氏は、

空手は近世の時代に沖縄で育てられ発展したもの

と結論づけ、

さらに近代に入って大きく育てられた

との認識を示した。
 巷間空手の源流武術として言及される「ティー」の語句については、この言葉が登場するのは近代(=明治以後)であり、近世に史料として裏付けるものは(今のところ)ないことを指摘した。
 その上で、たとえ記録に残っていなくとも、

言葉としては使われていたとしてもおかしくはない

と述べ、実際に

ティーチカヤ(ティーの使い手)、ティージクン(拳=こぶし)、手つくみなどの語はあった

と説明した。
 要するに、「ティー」という語が話し言葉として近世において存在したかどうかは、新たな裏付け史料などが出てこない限り、結論は出せないとの見解だった。
 また、沖縄空手の原型がだれからもたらされたかという点についても、

(1)冊封使(※1)の従者(=武官)から伝わった
(2)沖縄人が中国大陸にわたり福州で学んだ

――の2つの要素は揺るぎないものの、首里手の担い手である首里士族がだれからどのように学んだかは「よくわからない」と率直に表明した。
 加えて当時中国との関係は、華僑である久米村の一族が一番強かったので、中国関係の武術はクニンダ(※2)を通じてもたらされた可能性が高いことを示唆したが、そう結論づけられる史料は存在しないとの認識を示した。

※1 冊封使(さっぷうし)・・・琉球王国が中国王朝の臣下としての契りを示すために、中国から定期的に受け入れて歓待した使節団(1404~1866年)
※2 クニンダ・・・地名「久米」のこと。久米一族が住んでいた地域。

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。