沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第39回 沖縄固有の武術「ティー」は存在したのか(下)

ジャーナリスト
柳原滋雄

弱者の武術として始まった沖縄空手

 最も初期に一般的に記録に残された空手に関する資料は、当時まだ沖縄の小学校教員であった船越義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)が1913(大正2)年に『琉球新報』紙上に発表した「唐手は武藝の骨髄なり」(1月9日付)と題する文章とされる。
 そこで船越は、15世紀初めに琉球王朝が統一され、中央集権化が図られ武器をことごとく取り上げられたこと、さらに薩摩の琉球侵攻によって「ひどい目に逢わされた」結果、「無手勝流唐手の必要を痛切に感じ」、「護身用として唐手の練習をやらねばならぬ立場になったのであろう」と推測した。
 ご存じのとおり、船越の師匠は、安里安恒(あさと・あんこう 1828-1914)と糸洲安恒(いとす・あんこう 1831-1915)の2人だが、その2人の口伝を取り入れた見解であったことは容易にうかがえる。
 戦後になって、小林流開祖の知花朝信は、長嶺将真と行った対談の中で次のように語っている(『沖縄タイムス』1957年9月24日付)。

 これは私の師、糸洲安恒先生の話だが、もと沖縄には「手」というのがあった。のちに唐手がはいり、北谷屋良(※1)の「手」と唐手佐久川(※2)の拳法がひとつにされて、空手になったといわれます

 これらの見解は昔からあるものだが、船越は1922年に発刊した『琉球拳法 唐手』において、「確かなる考証なく、皆推測に過ぎない」と一蹴していた。
 結局のところ、史料に頼っていても、沖縄空手の源流やティーの存在は明確には浮かび上がってこない。ではどのような手法が考えられるのか。一つは、実技や技法の面からとらえ直す手法だろう。
 沖縄で〝最後のティーの使い手〟といわれるある空手家は、沖縄固有の武術は、「私たちは小さい、弱い、しかし殺されたくない」との考えから琉球人が編み出した知恵にほかならなかったことを強調する。
 空手がずっと「隠された秘術」であった以上、その名称がティーであったかどうかはともかく、ティーという名称が文献上に残っていないとしても何ら不思議ではない。なぜなら沖縄の武術はすべて口伝で伝わってきたからだ。
 その空手家の認識では、沖縄固有の武術が発達したのは、薩摩藩が琉球に侵攻し、多くの琉球人が殺された以降、つまり1609年以降のことになるが、それを契機に、琉球人の一部が地下に潜り、〝護身〟の研究を重ねた結果と推察している。つまり、沖縄固有の武術の入り口はあくまで「殺されたくない」という心情から発したものとみなしている。
 もともと沖縄由来の武術の特色は、正拳にあるともいわれてきた。中国武術が貫手を主体としたのと比べ、それは対照的だ。そのため、各種の巻き藁の鍛錬具も、沖縄で独自形成されたものとみられている。
 巻き藁は拳を鍛えるためのものと思っている人は多いが、実際は正しい腰使い(クシジケー)を確認する意味合いのものという。
 そうした沖縄固有の武術と、中国武術である「型」がいつごろ融合したのかは、これも堂々めぐりの論議で定かでない。

※1 「北谷屋良(ちゃたんやら)」…北谷(ちゃたん)の地に住む「屋良」という姓の武人一族の総称。18世紀に活躍した北谷屋良利導が有名。「北谷屋良のクーサンクー」、古武術では「北谷屋良のサイ」などで名を残した。戦前の空手の大家である喜屋武朝徳も北谷屋良一族から空手を習ったとされる。

※2 「唐手佐久川」…空手の源流の一つとされる唐手の祖、佐久川寛賀(さくがわ・かんが 1786-1867)の一般的な呼び名。中国の武術を琉球に持ち帰ったため、「トゥーディー(唐手)佐久川」と呼ばれた。

刀剣生産できない沖縄で発達?

「ティーの歴史はかなり古い」と語る野原耕栄さん

 野原耕栄(のはら・こうえい 1948-)は、喜屋武朝徳に師事した空手家の父をもち、自身は小林流開祖の知花朝信(ちばな・ちょうしん 1885-1969)の直弟子であった仲里周五郎(なかざと・しゅうごろう 1920-2016)に10数年師事した。
 野原の行動に特徴的なことは、型を中心に鍛錬する沖縄式の稽古に飽き足らず、日本のフルコンタクト・ルール(直接打撃制)を取り入れ、沖縄で毎年6月、オープントーナメントの大会を開催し続けていることだ。この大会は、沖縄伝統の型、古武道の型、さらに「実践空手」と称するフルコンタクトルールの組手試合の3部門で構成されている。
 野原は『沖縄伝統空手「手」(TIY)の変容』の著作をもつ。その野原は、沖縄固有の武術の歴史は、思っているよりもずっと古いと主張する。もともとはグスク(城)同士が戦った時代から、存在していたはずと説く。
 なぜなら沖縄では鉄が採れない。そのため刀剣というものを自ら生産できなかった。それらはすべて日本本土や中国から伝わるものしかなかった。そのため戦いで実際に使われた武器は棒にほかならなかったと語る。だが棒は木製のため、折れてしまう。折れて使えなくなった棒の代わりに最終的に行われたのが、素手による闘いだったと考えているからだ。

古い型名称の記録

 空手の型名称の多くは、中国の福建語に由来することはこれまで繰り返し述べてきた。
 文献上、最も古く記録されている「公相君」(1762年に書かれた『大島筆記』)、さらに1846年に演武された型として記録が残る「パッサイ」と「クーサンクー」。加えて1867年の冊封使終了を祝賀する催しの演目として、「十三歩」「ちしやうきん」「壱百〇八歩」が残されている。
 これらは、現在、首里手・那覇手で広く行われている「セーサン」(流派によって内容が異なる)、「シソーチン」、さらに剛柔流の難易度の高い型として知られる「スーパーリンペイ」を指すと見られるが、型の中身まで説明されていないので、推測にすぎない。
 また1896年に出された教育関係の機関誌では、「パッサイ」「クサンクン」「ナイハンチン」の記載がある。
 さらに1913年の『琉球新報』に船越義珍が書いた「唐手は武藝の骨髄なり」では、「流行の手」として、以下の型名が紹介されている。

 サンチン、セーサン、ナイハンチ、ピンアン、パッサイ、クーサンクー、五十四歩、チントー、チンテー、ジーン、ジッテ、ワンスー、ワンドー、ペッチューリン

 この中にはすでに見られなくなった型も含まれるが、空手の初期に認識されていた型として特筆できる。
 空手の型名のほとんどが中国由来とはいえ、数少ない例外として、糸洲安恒が一般向けに創作した「平安」(ピンアン)、剛柔流の宮城長順が初心者用につくった「撃砕」(ゲキサイ)、長嶺将真と宮城長順が入門者用に創作した「普及型」などがある。

なぜ日本で唐手は受け入れられたか

首里の伝統である舞(首里城祭、2018年10月)

 1905年、沖縄の学校教育の場で取り入れられた「唐手」。公認された背景として、軍国化する日本社会で青少年の肉体と精神を強化することは時代の要請と合致していた。実際、1922年に発刊された船越義珍の著書『琉球拳法 唐手』には、多くの軍人たちが祝辞を載せている。
 今ふりかえると、船越の空手普及の陰には、多くの日本人協力者の存在が欠かせなかった。講道館柔道の創始者として知られ、「日本体育界の父」と称された嘉納治五郎(かのう・じごろう 1860-1938)もその一人だ。
「唐手」は大正年間から日本本土で普及が始まったが、中国を忌避する時代背景から「空手」に名称変更された。同じ理由から、船越は多くの型名を中国式から大和式に変更。ナイファンチンを「鉄騎」に、チントーを「岩鶴」にといった具合だった。
 日本本土で発生した4大流派のうちの3つ、「松濤館」「糸東流」「剛柔流」はいずれも順に、船越義珍(1868-1957)、摩文仁賢和(まぶに・けんわ 1889-1952)、宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)という沖縄人が開いた流派である。もう一つの「和道流」を開いた大塚博紀(おおつか・ひろのり 1892-1982)は茨城県出身の日本人だが、船越の直弟子に当たる。
 さらに沖縄の3大流派「小林流」「剛柔流」「上地流」も、それぞれ知花朝信、宮城長順、上地完文(うえち・かんぶん 1877-1948)という沖縄人が開いたものだ。
 つまり、空手のすべての流派は沖縄人に端を発している。だが日本本土で形成されたほうの空手は、試合化される過程で型動作が統一されるなど、沖縄空手の技法の多くが改変された。海外の空手愛好家からも、沖縄で行われている空手と日本本土の空手は別物であり、沖縄空手こそが「源流」「本場」のものとして広く認識されている。
 戦後になると、極真空手をはじめとするフルコンタクト系空手も世界に広まった。だがこの流派も、剛柔流と松濤館空手の系統で、元をたどれば沖縄に行き着く。
 世界に1億人を超える愛好家がいるとみなされる空手。その流れを大別すると、「沖縄空手」「日本本土の空手」「フルコン空手」の3つに集約される。来年の東京オリンピックで正式種目となるのは、2番目の「日本本土の空手」に基づく競技だ。
 短く見積もっても、1600年代から優に400年以上の歴史をもつ沖縄発祥の空手――。源流をたどる旅はまだ始まったばかりである。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。