沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第34回 次世代を担う沖縄空手家群像(中)

ジャーナリスト
柳原滋雄

 昨年2月に始まったこの連載も最終盤を迎えた。40~50代を中心に次世代の沖縄空手家を紹介する2回目は、しょうりん流系の3人を紹介する。

少林流「聖武館」を継承する空手家

少林流聖武館の島袋善俊さん

 島袋善俊(しまぶくろ・ぜんしゅん 41歳 1977-)は、少林流聖武館を率いる島袋善保(しまぶくろ・ぜんぽう 1943-)を父に持つ5人きょうだいの長男。
 現在、沖縄空手界の4団体の一つ、沖縄県空手道連合会の会長をつとめる父親のもとで、3歳のころから空手に親しみ、これまでブランクと呼ばれる期間はなかったという。空手を始めた際の記憶はすでに残っていないが、自宅1階の道場で指導するときの父親は「厳しい先生」、ひとたび階段を上って2階の自宅に戻ると「優しい父親」に豹変する対照的な姿に、戸惑いを感じたことが一度や二度ではなかったという。
 小学・中学とバスケットボールに打ち込み、特に小学校時代は県内最強のチームに属した関係で九州大会でも優勝するほどの強さだった。それでも空手の稽古を途切らすことがなかったのは、母親の配慮があったからと語る。
 父親から「空手を続けろ」とは一度も言われなかったものの、母親からは「部活が好きで続けたいのなら、空手もしっかりがんばりなさい」と励まされてきたという。
 沖縄の大学を卒業して2年ほど米国アトランタで語学の勉強と空手指導の日々を送った。帰国してからは町役場に1年ほど勤務したが、定期的な海外指導などに対応しつつ空手を続けるには自営業のほうが両立しやすいと、頭を下げて父親の経営する不動産会社の社員となった。
 父の善保のことを自ら「善保先生」と呼ぶ。
 善俊の祖父にあたる島袋善良(しまぶくろ・ぜんりょう 1909-69)は、喜屋武朝徳(きゃん・ちょうとく 1870-1945)の最後の高弟の一人。善俊が生まれる前にすでに他界していたため、祖父の顔は知らないという。
 父・善保とともに型演武を行う機会が多い。好きな型はクーサンクー、チントー、セイサン。善保がクーサンクーを好んで行うため、自身はチントーを演じることが多い。
 沖縄市の道場で週3回指導を行う。海外指導の経験も豊富。5人きょうだいのうち、今も空手を続けているのは末っ子の次男と2人だけとか。
 幼少のころから当たり前に空手を続けてきたので、自身にとっての空手は「毎日の生活の一部」。仕事などが忙しくて1~2日体を動かさないと「不安に感じる」とも。
 喜屋武朝徳から数えて4代目。聖武館の3代目を見込まれる後継者だ。

第1回国際大会で初優勝

少林寺流振興会の與儀克也さん

 少林寺流振興会西原道場の與儀克也(よぎ・かつや 44歳 1974-)は、社会人になって空手を始めた。小中学校時代はサッカーに興じ、高校時代はバスケットボールに夢中になった。身体能力にある程度の自信はあったものの、格闘技に興味はあっても自分でやってみるには敷居が高かったと振り返る。
 学生時代、1年半ほどカナダに語学留学した際、出身が日本の沖縄であることを伝えると、多くの外国人から「カラテはできるのか?」と尋ねられ意外な思いがした。沖縄に戻り、勤務先の上司が少林寺流空手の使い手だったことから、誘われて空手を始めた時には24歳になっていた。
 週1回土曜日に稽古し、その上司が空手指導を止める際に、西原道場の親川仁志館長(おやかわ・ひとし 1954-)に師事した。以来、古武道(又吉系)もたしなむようになった。
 島袋家と同じ喜屋武朝徳系の空手ではあるが、こちらは仲里常延(なかざと・じょうえん 1922-2010)が開いた少林寺流。
 昨年8月に行われた第1回沖縄空手国際大会では、エントリー数が最も多かった首里・泊手系の部(成年Ⅱ男子)で、本戦だけで140人近い出場者がいる中、見事優勝を果たした。

 しょうりん流にあって、喜屋武(朝徳)先生の系統も健在であることを示せる機会となってよかったです。(親川)先生の顔に泥を塗らずに済み、正直ほっとしました。

 国際大会で沖縄県内予選を通過した際は3位だったが、予選が終わった3月から、8月の本大会までの数カ月間、会社勤務のかたわら、時間と場所を見つけては毎日のように個人練習に励んだ。当初はダッシュやジャンプ、バービーなど基礎的な体力づくりを心がけ、徐々に型稽古に入っていくカリキュラムを自らに課した。大会ではパッサイ、チントー、クーサンクー、セーサンの4つの型を使用。
 好きな型はチントー。この夏に行われる予定の古武道の世界大会に出場するつもりで、現在は、棒やサイ、トンファーなどの稽古に余念がない。師と同じく全沖縄空手道連盟に所属。自身にとっての空手とは、「沖縄人の誇り」との言葉が戻ってきた。

長嶺将真の孫弟子として生きる

松林流興道館の真喜志哲雄さん

 真喜志哲雄(まきし・てつお 47歳 1971-)は、松林流を開いた長嶺将真の高弟の一人であった真喜志康陽(まきし・やすはる 1939-2013)の長男として生まれた。当時、松林流の本部道場は国際通りの裏手・久茂地(那覇市)にあり、小学3年生のころから弟とともに大人にまじって稽古した。まだ少年部などの区分けのない時代である。
 小学、中学と松林流の空手をつづけ、高校時代は空手部に所属、競技空手の世界を体験した。高校では競技のための型とは距離を置き、ひたすら組手に没頭したという。高校卒業後、松林流の初段を取得した。
 大学時代は関東ですごし、そのまま神奈川県で就職。現地で結婚し、沖縄に戻るつもりはなかったという。
 那覇市で父親と一緒に空手指導をしていた妹から、ある日の深夜、長文のメールが届いた。父親がパーキンソン症候群に冒され、徐々に空手の指導が難しくなっていること、長男としてきちんと現実に向き合ってほしいとの内容が切々と書かれていた。そのとき、実家に戻ることを決意した。
 妻を説得し、即座に職場を辞め、2000年代半ばに家族3人で沖縄に戻ってきた。
 本土にいる間は空手から遠ざかっていて、すでに33歳になっていた。そこから再度松林流空手に打ち込み、十数年になる。
 父親の真喜志康陽は、型の名手として知られた。私もこの連載でほかの流派の取材をした際、そうした話を耳にしている。クーサンクーが得意技で、着実な稽古量の反映がなければ出せない独特の風格を持っていた。
 康陽は長男の哲雄に空手を学ばせながらも、直接、型のコツを教えることは一度もなかったという。一方で、自分の道場の門下生には懇切丁寧にコツを教えた。少し離れた距離からその指導内容を聞きながら、哲雄は技を盗んでいたという。
 いま振り返ると、それは父親が「自分で考える空手」を息子に植え付けようとした親心であったと実感する。すべてを懇切丁寧に指導されることに慣れてしまうと、師匠がいなくなったときに、本人の空手の成長は止まってしまう。そうならないために、自らもがきながら試行錯誤して身につけさせる習慣をつけようとしたのだろうと振り返る。
 沖縄に戻ってきて、空手を続けられる仕事など側面から支援してくれたのは、高校空手部のOB仲間だった。現在はセキュリティ会社に勤務しながら、空手指導と両立の日々を過ごす。
 好きな型は泊手特有の型とされるローハイ。将来は幼少のころから自分の目で何度もその迫力を感じてきた父親のクーサンクーに、少しでも近づきたいと抱負を語る。(文中敬称略)

【連載】沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流:
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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。