沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第5回 空手普及の功労者(上)糸洲安恒

ジャーナリスト
柳原滋雄

学校教育用に公開された「秘伝の武術」

沖縄における空手の古い歴史は、文献上、検証することができないハンディを抱えている。記録が消失しており、どのような歴史の変遷をたどったかを追うことができないのだ。そのため断片的な記録を三角測量で推測するしか方法がない。多くの史料を薩摩による侵攻時に失ったという説もある。
そうした沖縄で、廃藩置県以前までは、カラテは師匠から弟子に一対一で伝授される「秘伝の武術」にほかならなかった。稽古は深夜や早朝などだれにも見られない場所と時間を使って行われ、自分はカラテをやっているなどと口外することもけっしてなかった。武人と認められれば「腕試し」と称して挑戦してくる者が後をたたない風潮があり、面倒な事態を避ける意味合いもあったとされる。
数百年間、沖縄では、細々とカラテは受け継がれてきた。有用な型は残され、そうでないものは多くが淘汰されたと思われる。
沖縄発祥のカラテが本土で脚光を浴びたのは、明治政府が徴兵制を実施したことと無関係ではない。徴兵制の下では当然ながら身体の丈夫な者が評価される。政府が沖縄で身体頑健な者を調べると、それらはそろってカラテ修行者であることが判明し、沖縄発祥の武術の体育的効用が注目され始めた。
当時、「唐手」と称された時代である。

77歳頃の糸洲安恒

77歳頃の糸洲安恒

1901(明治34)年、初めて首里尋常小学校の体操科目として唐手が取り入れられ、「近代空手の父」「明治の拳聖」と謳われた糸洲安恒(いとす・あんこう 1831-1915)が自ら率先して指導を行った。
1905年には沖縄県立中学校(後の県立第一中学校)と沖縄県師範学校において正課体育として採用され、糸洲が唐手教師の嘱託となった。当時、沖縄県に中学校が一つしかなかった時代である。
糸洲は中学生の教育目的の空手用に「型」の枠組みを整え、再構築した。本来の空手は人を殺傷するための武術体系にほかならなかったが、目つぶしや急所攻撃など、教育上好ましくないと思われる危険な技を削除するなどし、「教育空手」の様式が整えられた。
師範代として、屋部憲通(やべ・けんつう 1866-1937)が師範学校で、花城長茂(はなしろ・ちょうも 1869-1945)が県立中学校で、糸洲の助手を務めた。2人とも日清・日露戦争に従軍した経歴を持つ、沖縄では著名な軍人として知られていた。
空手を使った教育は沖縄県で初の試みということもあり、空手の教育効果に関する県の諮問に答える形で、糸洲が答申書にまとめた内容(唐手心得10カ条)が「糸洲十訓」として残されている(原文は文語体だが、読みやすいように現代語に意訳したものを金城裕著『唐手から空手へ』からそのまま、本コラム末に引用する)。

大きな功績を残しながら晩年は不遇

糸洲安恒は他の多くの空手家と似て、幼少期、体が丈夫ではなかった。空手の師匠は松村宗棍(まつむら・そうこん 1809-99)で、15歳ごろから空手の稽古を通して頑健な肉体を手に入れたとされる。
身長はそれほど高くはなかったが、体は樽のような形で、突きの威力は相当なものだったという。弟子の船越義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)によると、多くの武勇伝もあったようだが、「糸洲十訓」を読めばわかるとおり、糸洲にとっての空手は、最後まで使わない(相手を傷つけない)ことが美徳であって、うまくさばいて相手を退散させることこそ正しい兵法だった。

沖縄県立第一中学校生徒による空手の集団演武(昭和12年頃)

沖縄県立第一中学校生徒による空手の集団演武(昭和12年頃)

その意味では、実践を求めて多くの武人と路上で手合わせを志した他の空手家とは異なっている。
琉球政府の祐筆(書記官)などを務めた糸洲は、多くの弟子を育てたことで知られ、その一人に小林(しょうりん)流開祖の知花朝信(ちばな・ちょうしん 1885-1969)などがいる。そのため糸洲は首里手系の空手家と見られることが多いが、自分では那覇手系の空手も学んでおり、糸洲の時代に、空手に「流派」は存在しなかった。

糸洲家の墓にある顕彰碑(那覇市)

糸洲家の墓にある顕彰碑(那覇市)

糸洲は学校教育のために平安(ピンアン)の型を初段から5段まで創作した人物として名を残している。古流の型はだれが作ったのかさえわからない古いものばかりだが、パッサイ、クーサンクー、チントーなどの古流の型のエッセンスを用いて創作したとされる平安は、いまも多くの流派に引き継がれている。ただし、本土に伝わった際に多くの改変がなされ、オリジナルの平安を行っている流派はむしろ少ない。
糸洲十訓では、空手が将来、青少年が軍人として生きていく上で有用といった項目も見られるが、これは糸洲が軍国主義者であったからというわけではなく、日清・日露戦争に勝利した直後の日本の時代相を反映したものといえる。
現在も、沖縄の小中学校では空手の型が朝礼時の体育運動として一般的に行われている例が多いが、それらの流れをつくったのは糸洲安恒といえる。
世界につながる沖縄空手の普及に多大な功績のあった人物ながら、晩年は経済的にも困窮したと伝えられる。糸洲の伝記は、一冊も残されていない。

◎「糸洲十訓」(訳・金城裕)

唐手道は孔子の教えである儒教や、釈迦が開いた仏教から出たものではありません。その昔、中国より昭林流と昭霊流という2つの流派が、沖縄に伝えられたものだ、と聞いております。この2つの流派は、それぞれを特徴づける長所がありますので、そのままの状態を大切に守りながら伝えて行かなければなりません。そのためには、自分だけの思惑で、型に手を加えない、という心がけが肝心です。それでは、唐手道修練の心得とその効用を、項目ごとに行を改めて書き記してみます。

1、唐手道は、個人としての体育の目的を果たすだけが、すべてではありません。将来主君と親に一大事が起きた場合は、自分の命をも惜しむことなく、正義と勇気とをもって、進んで国家社会のため、力を尽くさなくてはならぬ、という名分を持っております。ですから、決して一人の敵と戦う意図はさらさらありません。かような次第ですから、万一暴漢や盗人から仕掛けられても、平素の修練に物を言わせて、なるべくこれをうまくさばいて退散させるように仕向けることです。決して突いたり蹴ったりして人を傷つけることがあってはならぬ、このことが、本当の唐手道精神であることを、強く肝に銘じてほしいものです。

2、唐手は、もっぱら鍛えに鍛えて筋骨を強くし、相手からの打撃をも跳ね返すほどに体を鉄か石のように凝り固め、また手足も、槍や鉾(ほこ)などの武器に代わるほどの強さにすることが理想です。このように理想的に鍛え上げれば、自然と何事をも恐れず、自分の信念も曲げずに振る舞う、たくましい行動力と強い精神力が備わるものです。それにつきましては、小学校時代から唐手の練習をさせれば、いつか軍人になったとき、きっと他の剣道とか柔剣道のような術技上達の助けになる効用があります。以上述べましたようなことが、将来、軍人社会で(軍隊生活で)の精神生活と術技活動への何かの助けになると考えます。いかにも、英国のウェリントン候が、ベルギーのワーテルローでナポレオン1世に大勝を博したときに言われた、「今日の戦勝は、わが国の各学校の遊戯場で勝ったのだ(各学校のグラウンドおよびその他の施設で、広く体育の教育をやった成果である)」との言葉は、全くそのとおりで、実に格言というべきことでしょうか。

3、唐手は、急速に熟達しようとしても、なかなか難しいものです。よく一般に言われている「牛の歩みは、馬と比較してより遅いけれども、歩き続けていれば、ついに1000里以上の里程を走破することができる」との格言があります。そのような心掛けで、毎日1、2時間ほど精神を集中して続けますと、3、4年の間には通常の人と骨格が違うばかりか、唐手のかなり奥深いところまで到達できる者も数多く出るのではないかと思います。

4、唐手は、拳足を鍛えることが主体ですから、常に巻藁(まきわら)などで、十分練習を重ねるように努めねばなりません。さて、その要領は、両肩を下げ胸を大きく張り拳に力を込め、さらに踏まえた足にもしっかり力をとり、吸った息を下腹、へその下3~5センチほどのところに沈めるような気持ちで練習されたらよい。また突いたり、蹴ったりする回数は、ともに片方で、100~200回というところが効果的、と考えます。

5、唐手の立ち方は、腰を真っすぐに立て、重心の平衡が崩れないように両肩を下げ、力が体重全体に平均に及ぶような気持ちで、しかも両足も力強く立ち、吸った空気を臍下丹田(せいかたんでん へその下3~5センチぐらいのところ。中国の古い考えではここに力を入れると健康になり、勇気と力が出るという)に集中、上下の脇腹も丹田に引き合わされるようにして凝り固めることが大事な要点です。

6、唐手の表芸である型は、数多く練習したほうがよいのです。が、ただ漠然と練習してもそれほどの効果がありません。練習の効率をよくし、本物の技を身につけるには、型の中にある一つ一つの技の意味を正しく聞き届けるだけでなく、その技はどんな場合に用いるか、ということを確かめて練習しなくてはなりません。さらに、型の中に出てこない特別な突き方、受け方、腕や襟を取られたときの外し方、関節の極め方などの高度な技があるけれども、それは秘伝になっておりますので、多くは特定の人へ口伝えに教えるようになっております。

7、唐手の表芸である型は、その技の一つ一つについて、この技の目的は基本鍛錬のために有効なものか、応用技として練習するのに適切であるか、あらかじめ目的と方法をきちんと決めて練習しなくてはいけません。

8、唐手の練習をするときは、ちょうど戦場に出かけるような、はりきった意気込みがなくてはなりません。それで目はかっと見開き、肩を下げて相手からの打撃を跳ね返せるように体を固め、また、受けたり突いたりする技の練習でも、現実に敵の突きを受け蹴りを払い、体当たりしている実戦さながらの強い意気込みでやらなくてはならないのです。このような練習をすれば、自然とほかではまねのできないすぐれた成果が、形となって表れるものです。以上のことをしっかりと心掛けてほしいものです。

9、唐手の練習は、自分の体力不相応に、うんと力を入れて気張りすぎると上気して顔も火照り目も充血して体の害になるのです。以上のことは、どんな視点から見ても、健康のため有害ですので、しっかり肝に銘じたいものです。

10、唐手に熟達した人は、昔から長寿の者が多いのです。その原因をよく調べてみますと、唐手の練習が骨格の発達を促し消化器を丈夫にして、血液の循環をよくするので長寿者が多いということです。それで、唐手は今より後は、体育の土台として小学校時代から、学課に編入し広く多くの者に練習させて頂きたいと思います。そうすれば、おいおい熟達する者も出て、きっと1人で一度に10人の相手にも勝てるような猛者(もさ)もたくさん出てくることと思います。

右の10カ条の意図で、師範学校や中学校で唐手の練習を施し、将来師範学校を卒業して各地の小学校で教鞭をとることになったら、その赴任に先立って、10カ条に述べました唐手教育の意図とその効用を、細かく指示を与え、各地方の小学校でも不正確な点が少しもないように指導させれば、10年以内には、全国的に普及するはずです。このことは我々沖縄県民だけのためでなく、軍隊教育においてもきっとなにがしかの助けになると考え、お目にかけるために筆記いたしました。

1908(明治41)年10月 糸洲安恒

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。