連載エッセー「本の楽園」 第48回 仙人と呼ばれた画家

作家
村上政彦

浮世離れした人のことを「仙人のようだ」という。そこには揶揄と羨望が混じり合っているようにおもえる。画家であり、書家でもあった熊谷守一(くまがい・もりかず)は、ずっとそう呼ばれたらしい。彼の生涯を辿った本書を読んでいると、確かにと頷いてしまう。
熊谷は、1880年(明治13年)に岐阜県で生まれた。父の孫六郎は、いくつも事業を興して初代の岐阜市長となり、のちに上京して衆議院議員になった。生家は、とても裕福だった。
ところが、東京美術学校(現・東京藝大)に入学したあと、父が急死し、莫大な負債が残った。それは周りの人々の奔走で解決したようだが、経済的な支えを失った熊谷は貧困に陥った。
西洋画を学んではいるものの、自分が本当に描きたい絵が見つからない。アカデミズムへの反発があって、既成の画壇から先へ進んだ世界を求めた。それでも卒業するときは首席だった。天才という声もあった。
学校を出ても職探しはしなかった。そうかといって、次々に絵を描いてそれで生活の資を得ようという気持ちもない。40歳で結婚してからは10数年のあいだ、ほとんど絵を描かなかった。
夫人は絵を描くように説得する。ときには眼の前で着物を脱いで、「描いてください」と訴えたが、筆を執らない。では、何をしているかというと、たとえば、時計の修理。あるいは、音の振動数の計算。彼は、こんなことをいっている。

 私は本当に不心得ものです。気に入らぬことがいっぱいあっても、それにさからったり戦ったりはせずに、退き退き生きてきたのです。/私はだから、誰が相手してくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。

うーん、仙人っぽい。
生活のために夫人は実家へ金策に出向き、質屋通いをした。うまくしたもので、熊谷の周りには、いい友人が集まってくる。彼らのなかには、物質的な援助を申し出る者もいたのだ。
また、二科会の技塾(のちの二科美術研究所)で教えて、わずかながら車代をもらった。熊谷は学生たちにいった。

 いくら時代が進んだっていっても、結局、自分自身を失っては何にもなりません。自分にできないことを、世の中に合わせたってどうしようもない。川に落ちて流されるのと同じで、何にもならない。

徹底している。これは、熊谷の生活思想でもある。
でも、彼は幸運でもあった。夫人の実家から大金をもらってアトリエを兼ねた家を建てたのだ。不思議なことに、絵も描けるようになった。画風に変化が現われ、「熊谷守一様式」と称されるスタイルを確立した。彼は、すでに59歳になっていた。

 私の絵が長い間にずいぶん変わってきているので、どうしてそんなに画風が変わったのか、とよく聞かれます。しかしこれには「若いころと年とってからでは、ものの考え方や見方が変わるので、絵も変わった」としか答えられません。自然に変わったのです。

文学者の武者小路実篤を中心に創刊された雑誌『心』は、熊谷を同人に迎え入れ、彼の人間としての魅力を伝えた。熱心なコレクターも現われた。彼らは熊谷の絵と同時に、人にも惹かれていた。ある画商は、「神様に最も近い人」(!)といった。
「熊谷守一様式」を確立してからの彼は、それまでと一転してむしろ多作な画家になり、晩年まで制作に励んだ。若い画家たちは、彼を伝説の人のように仰ぎ見た。生涯の作品数は2000点近いともいわれる。
熊谷は長命だった。享年97歳。かつて親しい友人が、「もう1回人生を繰り返すことができたらどうする?」と尋ねたら、彼は、「おれは何度でも生きるよ」と応えたという。最後まで仙人っぽい。

お勧めの本:『仙人と呼ばれた男 画家・熊谷守一の生涯』(田村祥蔵/中央公論新社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「猟師のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。