沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第32回(特別編)神人武館 空手の源流・手(ティー)を求めて

ジャーナリスト
柳原滋雄

 神人武館(しんじんぶかん)が世の注目を集めるようになったのは1990年にNHKが制作した沖縄空手の番組(参考動画:外部サイト)からかもしれない。電話帳から破った1枚の紙をつるして正拳突きでその紙を切る、か弱そうな女性がその難しい芸当を見せてから余計に注目された。この団体の創始者は翁長良光(おなが・よしみつ 1938-)会長。中学3年生から空手を始め、武歴60年以上。沖縄で50年や60年の空手歴は珍しくないが、空手に費やした時間やエネルギーは人後に落ちない。独自の境地を開き、88年に創設したのがこの団体である。

真っ暗闇の中で声を出さずに稽古する

電灯を消して真っ暗闇の中で稽古する

電灯を消して真っ暗闇の中で稽古する

 神人武館には既存の空手団体やその稽古風景と全く異なる点が幾つもある。まず最初に挙げなければならないのは、電気を消して、真っ暗闇の中で稽古を行うことだ。2018年4月、初めて私が稽古場を訪れて最初に驚いたのはそのことだった。要するに視覚に頼らない。
 確かに琉球時代には、文明の利器である電気など存在しなかった。月の明かりのもとで稽古し、〝掛け試し〟の攻防を行った。そのなごりか、翁長会長は自分たちの武術を空手(からて)とはいわず、ティー(手)と表現する。

 ティーは、まぎれもなく(身体操作の)科学です。

 ティーは、沖縄で「唐手」という言葉ができる以前から存在した伝統武術を指す。そのためティーの歴史は沖縄固有の歴史と密接に結びついている。17世紀、薩摩に牛耳られ武器を奪われた琉球において、琉球人の徒手空拳の術として発達した。
 翁長会長によれば、ティーはもともと体の小さかった沖縄人が、自分は小さくて、弱い存在だが、むざむざと殺されたくない。その思いで修練した武術だったと強調する。つまり相手を殺すためでも、相手を屈服させるためでもなく、自分が殺されないための、ギリギリの場における術だった。

 ティーは人を殺すための道具ではないので、相手が倒れてもトドメをさすことはしません。また、『隠して持つ』というのが本来の意味です。本当に人を殺そうと思ったら、相手は間違いなく後ろから近づいてきます。

 当時は自分が武術を身につけていることを口外することはありえず、他人に稽古を見られることもご法度だった。そのなごりからか、神人武館の稽古でも声を発することはない。いわゆる通常の空手の稽古風景で見られる「かけ声」や「気合い」というものはなく、各自が黙々と声を出さずに稽古するという感じなのだ。
 私が最初に見た稽古は、4人の弟子が各自で準備運動から始まるメニューを淡々と行い、途中で巻き藁やサギマチワラの代用としてサンドバッグを突き始めた。指導する翁長会長は時折具体的なアドバイスを与えるものの、その指導に対して弟子たちは「はい」と声を発することもない。自らの五体を使って、ゼスチャーで「わかりました」と表現していた。こんな稽古の光景を見たのは初めてだった。
 こうした「声を発しない稽古」を2つめの特徴とすると、さらに3つめの特徴として、空手着にこだわらない、ことが挙げられる。私が見たときは短パンの人が多く、上半身はハダカ同然だった。指導する翁長会長も下半身には空手着を付けているものの、上半身はハダカ。これが指導の基本スタイルという。確かにティーの時代に空手着など存在しなかった。沖縄はもともと暑い。空手着は後世において剣道や柔道など他の武道から取り入れた慣例にほかならない。
 この日の稽古は巻き藁をつくドーン、ドーンという音が規則的に響いたほかは、黙々と息づかいと動作の音だけが不気味に残る中で2時間続けられた。取材者としては一種のカルチャーショックに近く、道場理解を深めるために日をおいて以後も足を運ぶことになった。

ティーは巻き藁から入る

 サンチンやナイハンチなど、空手の型のほとんどが福建語訛りの中国語に由来し、大陸から伝わったことはよく知られている。だがその当初の型が何百年かの歳月を経て、そのまま正確に継承されたとは到底いえない。そうした考えからか、現在の神人武館では、信頼できるナイハンチ初段~3段しか使わないという。翁長会長はティーと空手の違いについて、次のように説明する。

 沖縄空手の9割は型から入ります。これは本来の中国スタイルです。一方、ティーは巻き藁から入ります。巻き藁がティーに入るための入口なのです。型から入る空手と違って、巻き藁から入るティーに流派というものはありません。

 確かに空手の流派は剛柔流を嚆矢として、「昭和」に入って形成されたものにすぎない。本来、型も流派に属するものではなく、○○(個人名)のティーというように、空手家個人に属するものにほかならなかった。ここに現代空手とティーの最大の違いがある。
 さらに、「ティーに受けはない」と何度も強調した。
 現代の基本稽古などでよく練習するような、受けのための受けは実戦では使えないという考えからだ。相手の攻撃が点から点へ最短の直線で飛んでくるとすれば、曲線を描いて受けようとしても物理的に間に合わない。そのため、受けのための受けは実戦では成り立たないとの哲学に基づく。
 必然的に、受け即攻撃となる攻防一体の動きや、相手からの攻撃対象となる場所に自分の身を置かない「転身」の技術を熱心に稽古する。転身したあとさまざまな攻撃につなぐコンビネーションの動きも多く目にした。

 僕たち人間の足は左右にしか付いていない。(動物のような)前足や後ろ足はない。左右にしかいけないんです。

 蹴りは転身の延長上にあります。蹴りはプッシュではなく(腰使いで)はじきます。

 巻き藁突きでは相手の心臓または脇腹と想定し、そこに力のこもった突きを叩き込む。実戦を想定するので、素人がやるように単純に正面から巻き藁を突くわけではなく、側面から入って打つ動きなど、突き方には7種類の方法があるという(「口伝」のため詳しい内容は非公開)。
 翁長会長は、現在の沖縄において(実戦的な)巻き藁突きを指導できる指導者はほとんどいなくなったと嘆く。さらに「ティーを伝えられる人は、私が死んだらもうおしまいでしょう」とも。神人武館で教える内容はだれかの受け売りではなく、翁長自身の研究によって作り上げられたものという。
 10代からおよそ35年間、戦後の沖縄空手界の四天王の一人に師事し、うち20年は道場に住み込みで24時間、空手のことを考える環境にあった。その結果、その指導の深さは、空手の一端を知る者からすれば驚きのレベルに見える。
 例えば、最初に見学した際、私は翁長会長が舌(ベロ)の位置まで懇切丁寧に指導しているのを聞いて耳を疑った。相手に呼吸を読まれないための指摘だったようだが、自らの地べたを這うような修練抜きに出てこない内容に感じられた。

「本物の弟子を10人つくりたい」

野天の稽古場(中城村)

野天の稽古場(中城村)

 翁長の希少価値を知悉する少数の弟子が、今も熱心に稽古を続ける。
 2年前に兵庫県の高校を卒業と同時に、沖縄に住み着いて修行を行っている和田幸之介(1999-)は、高校2年の夏に、翁長のもとを初めて訪れた。ネットで翁長の映像を見て、これは何か違うと思い、親に頼んで来沖したという。高校3年になってからも沖縄を訪問。卒業後はカナダ留学が内定していたが、翁長の空手の魅力に引き込まれ、〝翁長のティー〟を優先して学ぶことを決意。姫路ナンバーの自家用車とともに海を渡った。
 糸東流空手の指導者である父親の元で中学生のころから空手を習った経験のある和田は、翁長の空手哲学、稽古体系など、他の空手とは全く違った価値を感じとったという。来沖してからは最低限の仕事をこなしながら、空手中心の生活を続けている。
 神人武館は那覇市から車で30分ほどの中城村(なかぐすくそん)に独自の「青空道場」を持つ。海に臨む崖のてっぺんを開墾し、稽古スペースをつくって巻き藁などを設置した場所だが、週2回の定例稽古のない日は、和田は毎日のようにその稽古場に通って自主稽古を続ける。
 私がその場所に案内してもらったのは、たまたま台風が来襲した日だった。通常の感覚で、今日は自主稽古を休むのかと尋ねると、逆に天候が悪い日ほど稽古に身が入るとの返事が戻ってきて驚かされた。暴風雨の中、淡々と稽古する姿を傍らで見守ることになった。
 十文字陽介(1975-)は千葉県船橋市の出身。小中学校時代は、本土の松濤館空手に励んだ。就職氷河期の世代にあたり、フリーターをしていたとき、たまたま神人武館の道場の前を通りかかり、興味をもって入門したという。10年前から沖縄に定住し、鍼灸師や柔道整復師の資格を得ながら、翁長のティーの習得に励む。将来は習得した「オンリーワンの空手(ティー)」を自分の弟子たちに伝えていきたいと考えている。
神人武館の翁長良光会長(中央)

神人武館の翁長良光会長(中央)


 アラン・ウェング(1984-)は、台湾出身。英語、中国語、日本語の3か国語に堪能で、海外支部との連絡係を担っている。
 20年以上翁長に師事する別の男性(1972-)は、開業医として多忙な日々をぬって稽古に励む。もともと学生時代にバスケットボールをしていて、体の使い方という点で共通性を感じ、翁長のティーに励むようになった。現在残る弟子の中では最年長であり、唯一の沖縄出身者だ。この男性が強調したのも、翁長のティーはサバイバルのための技術ではなく、リビング(よりよく生きる)ための技術という言葉だった。
 翁長は私が訪ねた最初の日、「死ぬまでに10人の弟子をつくりたい」と口にした。次に会ったときにいま何人の弟子がいるのか尋ねると、「4、5人」との返事だった。
 また、神人武館の稽古を何度か見に行くうち、そのたびに聞かされたのが、沖縄空手界の民度の低さという話である。

 沖縄には(最高位の)10段が150人もいる。柔道界にも、剣道の世界にも10段はいません。これでは(段位の)権威はなくなってしまいます。しかも10段は審査を受けてなるのではなく、自分で任命して自分で賞状を書くような10段です。ティーは本来死ぬまで修行なのです。

 沖縄空手界のタブーを臆することなく口にする。

 いまの沖縄空手ははしゃぎすぎです。オリンピックが終われば、空手への関心は薄れるでしょう。ティーの精神は、殺されたくない。だから声を出さない。でもいまの空手競技は、声を出す。たまたまライオンの近くに来てしまった獲物が、私はここにいますと自ら声を出すでしょうか。黙ってその場から離れるのが賢さというものです。ティーはいかに戦うかではありません。いかに戦わずに済むか。本来のティーとはそうした知恵のことを指します。

 比嘉佑直(ひが・ゆうちょく)師が亡くなる直前、病床に見舞った際に伝えられた言葉が忘れられません。それは『治にあって乱を忘れず』。今の日本人は平和になりすぎて自らの危険を感じとる力が失われた面があります。ティーはいざというときのための備えの術。実際に使う機会は一生のうちに一度訪れるかどうかくらいかもしれませんが、死ぬまで稽古を怠ってはいけないよ、という力強いメッセージだったと思います。

 ちなみに翁長会長はクリスチャン。お酒をこよなく愛するざっくばらんな人柄だ。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。