沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第33回 次世代を担う沖縄空手家群像(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

 昨年2月に始まったこの連載も最終盤を迎えた。今回から3回にわけ、40~50代を中心とする次世代の沖縄空手家を紹介する。人数に限りがあるので多くの方々を紹介できないことをあらかじめご了解いただきたい。1回目は、沖縄県空手道連盟に所属する3人――。

沖縄では珍しい「空手専業」の中堅指導者

剛柔流「仲本塾」の仲本雄一さん

剛柔流「仲本塾」の仲本雄一さん

 剛柔流空手「仲本塾」を主宰する仲本雄一(なかもと・ゆういち 43歳 1975-)は、中学1年のとき、近くにあった剛柔流空手の道場に入門した。八木明徳系統の道場で、型を反復し、年に1度ある沖縄タイムス主催の競技大会で優勝することに喜びを感じたという。転機が訪れたのは高校を卒業するころ。道場の先輩のつてで、「隠れ武士」的な空手家に出会う。
 その道場を訪ねた際、「ちょっと立ち合ってみるか。かかってきなさい」と言われ、年齢もずっと上で、本気で攻撃することを躊躇したという。その気持ちを見透かされるように「本気で来い」と叱咤され、ようやくその気になったものの、突いても、蹴っても軽くいなされ、技を極められる。まったく歯が立たず、最後はぶざまに宙に浮かされ、転がされた。いま振り返ると合気的な手法だったというが、「これが本当の空手なのか」と目を開かされたと語る。
 その人物とは、流派は異なる小林流昭武館の大城功館長(おおしろ・いさお 1943-)だった。そのまま小林流に再入門することを願い出たが、「体の使い方さえ覚えれば流派は関係ない」と諭され、剛柔流空手を続けることに。以来、空手の師匠はこの人と決めてきた。
 2003年、27歳のときに剛柔流の技術書『奥義と妙技』を発刊。今となっては「若気の至り」と反省も多いが、自らの研究熱心がそのまま結実したもので、剛柔流という流派の歴史や成り立ち、系統による型の違いなどを学ぶ貴重な機会になったと振り返る。
 同じ年に空手指導を始め、翌04年「仲本塾」と称するように。さらに08年、それまで不動産会社勤務とともに空手を両立していたが、空手一本でやっていきたいと一念発起し、仕事を辞めて沖縄では珍しい「空手専業」の道へと踏み出した。
 現在、豊見城(とみぐすく)市役所のそばのマンションを借り、自宅とは別に常設道場を確保して教えている。生徒数は子どもと大人を入れて120人ほど。100人を超えたころから、なんとか生活できるレベルになったという。
 沖縄の道場といえば、道場主が職業をもち、あるいは定年後、自宅の一部などを稽古場にして教えているケースが多い。東京のような常設道場は、沖縄では極真系の道場などを除けばほとんど見られなかったが、仲本のような専業空手家も増えつつあるようだ。
 昼間は保育園や学童クラブを回って指導、夜は自分の道場で稽古をつける。
 2004年ごろ、競技空手を行う沖縄県空手道連盟に移った。子どもは「試合」という目標がないと、やはり持続力を保てないと実感したからだ。幸い、剛柔流はしょうりん流や上地流と異なり、沖縄本来の伝統的な型と、全空連の競技用の型の違いがそれほど大きくなく、その点では助かっていると語る。
 将来は沖縄の伝統型を使いつつオリンピックなどの大舞台で活躍する選手が出てくるのが夢と語る。

伝統空手と競技空手の両方を教える

小林流「守武館」3代目の上間建さん

小林流「守武館」3代目の上間建さん

 守武館副館長の上間建(うえま・たけし 44歳 1975-)は、首里手の本場・首里鳥堀町の自宅兼道場の家で生まれ育った。5歳のときから祖父の上輝(1920-2011)、父親の康弘(1945-)に師事した3代目だ。
 守武館は首里手系の、城間真繁(ぐすくま・しんぱん 1891-1957)や島袋太郎(しまぶくろ・たろう 1906-80)の系統の空手で知られる。そんな中、上間は高校時代に空手部に入部、大学時代まで組手などの競技空手を経験した。その結果、

 競技空手の指導も、伝統空手の指導も両方できるようになりました。

と語る。
 守武館では海外支部との間に密接な交流があり、23歳のとき、父親の康弘に連れられて初めて海外指導に出かけた。
 最大の支部は門下生500人を抱えるスイス支部で、23歳での初訪問以来、毎年のように指導に出かける。26歳のときフランス語を学ぶため半年間スイスに語学留学しながら、空手を指導したことも。スイスでの指導回数は20回を超える。
 さらにカナダのケベック州にも10回ほど通った。いずれも使用言語はフランス語。沖縄空手案内センターのミゲール・ダルーズ広報担当(1971-)のフランス語教室でも学び、日常会話には困らない程度に上達した。
 20代後半のころ、祖父の上輝から直接かけられた言葉が忘れられない。

 将来はお前たちが海外に空手を習いに行くことになるぞ。

 海外メンバーのほうがよほど真剣に稽古していると叱咤する言葉だった。その指導のとおり、夏場になると本場の沖縄空手を求めて、海を越えて稽古に訪れる国外メンバーが後をたたない。
 守武館では12年前から沖縄尚学高等学校・附属中学校で小林流の指導を行う。もとは父親の康弘が中心に教えていたが、2年ほど前に世代交代のため、完全に入れ替わった。同校の中学・高校の全生徒に、学年ごとに週1回空手を教える毎日。平日の午前中は生徒への指導に追われるため、2年前に損保会社の代理店の仕事を完全に辞め、空手指導に専念している。
 得意とする型は北谷屋良(チャタンヤラー)のクーサンクー。妻と、4代目となる7歳の長男を含む2人の子どもも空手を続ける。
 祖父の上輝が、亡くなる直前の90歳まで間近に稽古する姿を見てきた。沖縄空手は生涯かけて行うものとの実感を強くもつ。

「生まれ変わっても上地流を選ぶ」

上地流・琉球古武道「琉志会」の長嶺朝一郎さん

上地流・琉球古武道「琉志会」の長嶺朝一郎さん

 上地流空手・琉球古武道「琉志会」を主宰する長嶺朝一郎(ながみね・ともいちろう 51歳 1968-)が空手を始めた動機はやや変わっている。
 沖縄生まれの沖縄育ちながら、東京で学生生活を送ったせいか、空手といえばフルコンタクトの極真空手のイメージしかなかったという。あるとき尊敬する人物の「沖縄には優れた文化があるからその文化を大切にしなさい」との言葉に、自分も何か触れてみたいと考えたのが古武道を始めるきっかけになった。
 同じころ、勤務先の女性社員が結婚することになった。結婚式の余興で素人ながら古武道の真似事を演武することになり、つてをたどって演武用の道具を借りに行き、エーク(櫂)の使い方を教えてくれたのが現在の師匠、金城政和(きんじょう・まさかず 1952-)だったという。
 道具を返しに行って古武道をやってみたいと伝えると、金城の弟子から「古武道をやるなら空手も一緒にやったほうがいい」と言われ、25歳で琉球古武道と上地流空手を習い始めた。以来毎日稽古をつづけ、1年後には双方とも黒帯を取得した。
 2002年、自らの団体「琉志会」を立ち上げ、後進の育成に励んできた。昨年の第1回沖縄空手国際大会では、門下生から古武道部門で5人の優勝者を輩出するまでに。
 琉志会の現在の稽古場所は安謝(あじゃ)公民館。長年毎日のように朝1時間半の朝稽古を主宰してきたが、最近は仕事が忙しくなって数を減らしているのが残念と語る。

 生まれ変わってどの流派を選ぶかと聞かれたら、迷わず上地流を選びます。

 理由を尋ねると、上地流はしょうりん系、剛柔流より型の数が少ないので、その分それぞれの型を深められるとの言葉が戻ってきた。ある先輩からは「東の極真、西の上地流といわれた時代もある」と教えられ、発奮したこともあったと振り返る。
 最近は古武道の演武を頼まれると、エークを用いることが多い。長年、那覇市空手道連盟の事務局長、手(ティー)を語る会の事務局長など、裏方を務めた。
 自分にとっての空手とは、「ライフワーク」。将来の夢を尋ねると、

 空手をきっかけにメンタル面でも肉体においてもタフな人間、沖縄文化を発信できる人間を育てたい。

 姓が同じであるためか、以前はよく「長嶺将真さんの親戚ですか」と尋ねられたらしい。県連創設者である長嶺の「英断」には尊敬の念を抱く。次世代空手家の中では、古武道の分野で一目置かれる存在だ。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。