沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第15回 日本初の流派・剛柔流(下)

ジャーナリスト
柳原滋雄

宮城長順の孫弟子たち

海外に30万人以上の弟子をもつ東恩納盛男さんは今も一人稽古を欠かさない

海外に30万人以上の弟子をもつ東恩納盛男さんは今も一人稽古を欠かさない

 現在の沖縄剛柔流を引っ張るのは、流祖である宮城長順の「孫弟子」に当たる世代である。比嘉世幸、八木明徳、宮里栄一らの直弟子たちになる。
 国際沖縄剛柔流空手道連盟の最高師範・東恩納盛男(ひがおんな・もりお 1938-)は、海外65ヵ国に30万人以上の弟子をもつ、沖縄剛柔流の顔ともいえる存在だ。

 15歳で空手を始め、宮里栄一、宮城安一に師事。80歳を目前に控えながら、今も週に2~3回は夜の指導をみるかたわら、午前の1時間以上の一人稽古を欠かさない。すべての型をひととおり行い、その後、好きな型を繰り返すという。
 道場内にはサンチンで使う握りがめやチーシーなど、剛柔流独特の稽古で使用する器具が多く並んでいる。ビルの1階にある道場内の白壁が黒ずんでいるのは、東恩納自身が毎日裏拳を叩き込むことで出来た跡だ。

 同じ剛柔流でも、戦前に教わった人は型がだいぶ違います。鉛筆を削るのによく例えるのですが、最初は荒削りで、仕上げに近くなると小さく削る。空手も似たところがあって、初期のころの教えでは虎口(回し受け)も大きく回しましたが、戦後の長順先生は小さく、体から出ないように指導されています。

剛柔流の鍛錬で使用する特徴的な器具(東恩納道場)

剛柔流の鍛錬で使用する特徴的な器具(東恩納道場)

 戦後、宮城長順に付ききりで師事した弟子が宮城安一だった。東恩納は「長順先生は戦後に技を集大成し、安一先生に一子相伝で伝授しました」と説明する。

 長順はしばしば、型を変えてはいけないとも指導したという。また型は、意識して行っているレベルではまだまだで、無心になるまでやれという教えもあった。
 その教えを受け、東恩納は40代のころ、スーパーリンペイを100回連続で繰り返す苦行を自身に課し、週に1回、3ヵ月間続けたことがあるという。

 100回やるのに6時間くらいかかります。最初はお腹がすいたとか、トイレに行きたいなど自分の弱さが見えてきます。敵は相手でなく、自分自身との戦いなのです。

八木明達さん

八木明達さん

 そうした修行のせいか、いまも肩がうまく動かないというが、稽古に取り組む姿勢はストイックそのもの。長年の鍛錬で出来上がった東恩納の体型は、まるで樽のようにがっしりしている。

 八木明徳の長男で、国際明武舘剛柔流空手道連盟の2代目宗家をつとめる八木明達(やぎ・めいたつ 1944-)も、主に海外普及に半生をかけてきた。
 アメリカ、グアム、サイパン、フィリピンなど主に英語圏を転々としながら、海外セミナーを2000回以上繰り返してきた。八木は「沖縄空手もなかなか複雑なんですよ」と切り出し、沖縄空手界における競技と伝統の確執について説明を始めた。型競技で行う指定型と、沖縄の型は同じでないことを解説した。

 剛柔流でいうと、スーパーリンペイとか、我々が習ってきた沖縄本来の型とは違うんですね。競技ではスピードやキレばかりを重視する傾向が強く、審判が採点しやすいように本来の型を崩してしまっています。これでは沖縄空手は変質してしまいます。

 明達の父・八木明徳は、1981年の沖縄空手界の分裂騒動の際、競技反対の立場で組織(全沖縄空手道連盟)の会長として動いた経歴をもつ。
 ちなみに八木明達の長男、明人は映画に出演したこともある空手家で、現在、東京を拠点に活動する。沖縄の八木道場を支えるのは、次男の明広である。
 沖縄伝統空手道振興会で事務局長の要職を務める池宮城政明(いけみやぎ・まさあき 1953-)も、八木明徳の弟子の一人だ。
 強くなりたいと高校1年のとき近くにあった空手道場に入門した先が八木道場だった。高校・大学と空手に打ち込み、20代半ばで1年近く、ブラジルで現地指導した経験もある。帰国後、27歳で念願の常設道場をもった。自宅上の3階にある30坪の板張りの道場は、4回目の道場という。

 巻き藁を30年以上突き続けて、あるときふっと気づくこともあります。沖縄空手は生涯空手。僕らは空手職人という感覚です。チンクチやムチミは日々鍛錬しないとやはり出せるものではありません。

久場良男さん

久場良男さん

 常設道場といっても、本土の感覚とはかなり異なる。沖縄では空手を教えるだけで生活している人はごく少数で、仕事をもちながら、あまった時間で空手を教えるケースがほとんどだ。池宮城も福祉関係の仕事を長年行っているという。

 沖縄空手道拳法会会長の久場良男(くば・よしお 1946-)は、比嘉世幸系の渡口政吉に長年師事してきた。渡口は短いながらも宮城長順に直接教わった時期があるため、ほかの比嘉世幸系の道場とはやや異なる部分もあるという。
 渡口の本土の道場は多くが全日本空手道連盟に所属していたこともあり、分裂騒ぎのときは、競技容認のほうに加わった。若いころは、組手競技に力を入れ、沖縄の町道場の中ではその実力で光る存在だったという。

 私は若いときの競技は一切否定してはいけないという立場です。ただ最終的には、伝統的な動きをしている人が残れるんじゃないか。そのほうが護身にもつながります。競技の組手ばかりをやっていると、いざ実践となったときに、相手を怪我させないで制圧するのが難しく、反射的に手や足が出て、相手を怪我させてしまう危険性はあります。

 30歳を超したら、自由組手主体の稽古では技は身に付かないと力説する。

 受け技の変化は投げ技なんです。

 久場は多くの技術指南のDVDでも名を知られている。

 話は変わるが、極真空手を創設した大山倍達は、松濤館と剛柔流を稽古したため、現在の極真にはサンチン、サイファ、セイエンチンなど剛柔流の型も多く残っている。沖縄剛柔流の達人たちからは、「極真の型は剛柔流の初歩的な使い方」「体の使い方が我々とは異なっている」など多くの指摘を耳にした。
 冒頭の東恩納は、沖縄伝統空手をユネスコ無形文化遺産に登録するための運動の中核として、現在、熱心に活動する。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。