沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第37回 沖縄固有の武術「ティー」は存在したのか(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

 この連載を締め括るに当たり、歴史の問題は避けて通れない。沖縄空手の起源をめぐっては、その解明に必要な史料の多くが、1609年の薩摩藩による侵攻、1879年の日本政府による琉球処分、1944年の米軍による沖縄大空襲や翌年の「沖縄戦」によって消失したとされる。近年、空手の歴史をアカデミズムの立場から研究する動きも新たに出てきているが、巷間流布されてきた幾つかの「定説」にも疑問の声が投げかけられている。その一つが、沖縄に存在したとされる固有の武術「ティー」をめぐる問題だ。例えばこれまで、沖縄空手の源流は、沖縄にもともとあった土着の武術「ティー」と中国から渡ってきた武術とが融合して形成されたとの「定説」がまことしやかに喧伝されてきた。本連載においても当初はそのように紹介した。ただし、現在の研究ではそれとは異なる事情も浮き彫りにされている。沖縄空手の歴史の問題を数回にわたり取り上げる。

なぜ沖縄で空手は生まれたのか

 約1世紀の年月をかけて世界中に広がったKarate。小さな島にすぎない沖縄が「発祥の地」となったこの武術は、なぜこの地で生まれたのだろうか。そこにはさまざまな背景がこれまで指摘されてきた。
 一つは立地上の特殊性である。かつての琉球王国は、日本と中国大陸の間にあって、両方の文化を同時に吸収できる立場にあった。特に中国大陸の福建地方が近いため、この地域から多くの文化が入った経緯がある。空手もその一つで、さらに沖縄楽器として知られる三線(さんしん)なども、同じ福建地方から伝播したものだ。
 また日本でも、日本刀を武器とした時代に、徒手空拳の武術が同時に発達した。柔術などはその好例であろう。武器が使えない事態となったときに、相手を振り払い、自分の身を守るための武術としてである。沖縄でもそうした武術として、空手や古武道が発達したことは不思議ではない。
 現在の沖縄本島を「発祥の地」とする空手――。今では「空手」の呼称で知られるが、そのような名前で呼ばれるようになってまだ100年にも満たない。明治・大正期は同じ読み方でも「唐手」と表記した時期がある。それ以前はそもそもカラテとは言っておらず、単に「手(て)」と呼ばれたとする武人もいる。
 いざ沖縄空手の起源をたどろうとすると、その証拠となる文書の裏付けは不可欠とならざるをえない。だが、それらはほぼ現存しない。前述のように、江戸時代に入って間もないころの薩摩藩による琉球侵攻や1879年の琉球処分、さらに1945年の沖縄戦によって多くが消失したためだ。
 そのため空手のもととなる武術が、いつごろどのような経路で沖縄に伝わったかを直接的に証明する手段はもはやなきに等しい。断片的な状況証拠をもとに大まかに推論するくらいしか方法は残されていないのが現状だ。さらに学問的見地からの取り組みはまだ始まったばかりである。

沖縄空手会館の別棟で古武道の型を披露する(2018年10月)

 それでも、伝来した時期の検討については大まかな予測は成り立つ。「沖縄学の父」と称される複数の学識者が残したいちおうの見解も存在する。
 加えて重要な史料として注目されるのは、日本本土に最初に空手を普及させた沖縄人として知られる船越義珍(ふなこし・ぎちん 1968-1957)の書き残した一群の文章である。
 船越の空手の師匠といえば、首里手の事実上の創始者と目される松村宗昆(まつむら・そうこん 1809-99)の3高弟の一人といわれた安里安恒(あさと・あんこう 1828-1914)が挙げられる。さらにその安里と親しい友人関係にあり、同じく松村にも師事した糸洲安恒(いとす・あんこう 1830-1915)が知られる。糸洲は空手を沖縄の学校教育に取り入れるため、従来の型を教育用にアレンジした功績をもつ重要人物だ。糸洲は初段から5段までのピンアン(平安)型の創案者としても知られている。
 船越はまだ沖縄県の小学校教諭であった時代に、地元紙の『琉球新報』に2度にわたり、空手に関する重要な文章を掲載している。1913(大正2)年に掲載された「唐手は武芸の骨髄なり」と、翌14(大正3)年の「沖縄の武技――唐手に就いて」で、空手の起源を推察した初期史料として貴重なものだ。
 さらに船越は東京に出た1922(大正11)年の暮れ、『琉球拳法 唐手』と題する空手に関する単著を一般向けに発刊した。
 いずれも空手の歴史については、自分の師匠などから得た知識をもとに書いた部分が多いと推測される。
 さらに空手の歴史についてかなり早い時期に見解を発表した学識者として、「沖縄学の父」と称された東恩納寛惇(ひがおんな・かんじゅん 1882-1963)と伊波普猷(いは・ふゆう 1876-1947)が挙げられる。
 東恩納の父親は過去の著名な沖縄空手家の一人であり、寛惇自身、先の『琉球拳法 唐手』に序文を寄せている。ほかに伊波も、1932年に「古琉球の武備を考察して『からて』の発達に及ぶ」と題する論文を書いている。2人は自分で空手の稽古をしたわけではないが、父親や祖父が空手家だった家庭に育ち、まったくの第三者ともいえない立場にある。

伝来時期は「闇」の中

 すでにこの連載でも指摘してきたとおり、空手の型名称(特に大正年間以前の古い型)のほとんどは福建地方の中国語に由来する。そのため、いつ伝わったのかという時期の問題が出てくるが、上記の東恩納と伊波はそれぞれの論文で、

「慶長以降の事」(東恩納寛惇)

「慶長以後に発達したことは最早疑う余地がない」(伊波普猷)

と、同一の見解を示している。
 慶長年間とは1596~1615年の期間で、具体的には薩摩が琉球を支配下に治めた1609(慶長14)年以降のことを指す。
 琉球王国が統一される前、沖縄本島で武器をもって戦った15世紀までの時代には、徒手の武術が発達する素地は少なかったと思われ、そのことを指して伊波は自らの論文の中で、

「『からて』は武備の衰退と逆比例して発達したに違いない」

と記している。薩摩に征服され、一般には武器を大っぴらに携帯することが許されなくなって以降、〝徒手の武術〟が発達したと見込まれるとの主張である。
 これらは船越がすでに1913年に『琉球新報』紙上で発表した

「薩摩侵攻により武器を取り上げられ、護身用として必要な唐手の練習をやらねばならない立場になった」

という見解と同一のもので、長年「定説」のように扱われてきた考え方である。
 これに対し、「慶長以後」では時代として新しすぎる、

「カラ手の発達は、慶長以前にその始まりがあったのではないか」

と根拠を挙げて反駁したのが、金沢大学のビットマン・ハイコ教授だった。
 同教授が2014年に発表した「空手道史と禁武政策についての一考察――琉球王国尚真王朝と薩摩藩の支配下を中心に」(クリックしてPDFをダウンロードする)という論文は、薩摩藩の支配による禁武政策と空手の発達との相関関係を子細に検討してみると根拠は薄く、空手の祖型が中国から伝わったのは

「慶長年間よりもっと早い可能性」

を指摘する内容だった。
 他方、現存するわずかな文献をたどれば、1700年代半ばには、今も現存する著名な型名の公相君(いわゆるクーサンクー)という記載を残した文書(『大島筆記』)があることに加え、1700年代半ばには、今の空手と同じように瓦を何枚も重ねて割ったりしたことがうかがえる記録(『薩遊紀行』)も残されている。
 そうした事情から推測する限り、沖縄空手の古典的な型または基盤となる武術が中国から伝来した時期は、1500年代から1700年代くらいの間ではないかとの大まかな推測が成り立つ。

沖縄伝統楽器「三線」と似た経路

琉球国王が賓客をもてなした御茶屋御殿(うちゃやうどん)の跡地。ここで琉球人が武術披露した記録がある。

 そのことは沖縄伝統文化の一つとされる「三線」の伝播時期や経路と比較しても、合理的な解釈であるとする見方がある。三線も空手と同じく、中国福建省の楽器・三弦が沖縄に伝わり、沖縄人の手で改良され、日本本土に伝播した経緯があり、その間、多くの種類の三線が沖縄でつくられた。これらの経緯は空手の伝播経路とそのまま重なるものだ。
 一般に三線の原型が沖縄に伝わったのは1400年代といわれ、琉球王国が宮廷楽器として正式採用したのは1600年代初頭とされている。空手の源流となった武術が伝わった時期と、ほぼ重なるという見立ては、まんざら外れたものとはいえないかもしれない。
 ただ空手の伝来方法については、伝来の時期ほどに明確に推論できるわけではない。琉球王国が中国王朝の臣下としての契りを示すために中国から定期的に受け入れて歓待した冊封使(さっぷうし)の使節団(1404~1866年)の一行に武官がまじっていたことは明らかで、そこから伝わったと見るのは有力な説の一つだ。事実、1756年以降の冊封使については、来琉した武官が空手指導を行った記録が残されている。
 そのほか琉球と中国間の交易に携わる商人などにとって、海賊から商取引を守ることは何より重要な要請となっていたことも明白だ。商人たちには許可された武器を使うだけでなく、中国の武術者からも率先して〝徒手武術〟を学ぶ必要性が生まれたと推察される。
 また14世紀末には福建地方からビン人36姓が定着し、中国人居留地である久米村を形成。そこから中国武術が伝わったとする説もある。
 中国に130回以上調査の足を踏み入れた武術研究家の金城昭夫(きんじょう・あきお 1936-)は、

「唐手は古来より中国拳法が幾度となく沖縄に伝来し、それが沖縄化して形成されたもの」

との説を長年主張してきた。それらを敷衍すると、沖縄空手は、中国福建地方から伝わった武術を沖縄式に土着化したものといえる。
 もちろん、「巻き藁」のように、沖縄で独自に発達したとみられる鍛錬器具も現存する。薩摩藩の剣術として知られる「示現流」の鍛錬法の影響という説が有力だ。
 琉球には、古来さまざまな機会を通じ多くの型が伝わり、うち一部が現存し、その他多くが淘汰され消滅していったと推測される。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。