民主党政権とは何だったのか――今また蘇る〝亡霊〟

ライター
松田 明

戦後8番目の短命内閣

 10年前の2009年8月30日。
 日曜日の朝、全国紙の一面広告を使って、次のようなメッセージが掲載された。

 あなたは言う。どうせ変わらないよと言う。政治には裏切られてきたと言う。しかし、あなたはこうも言う。こんな暮らしはうんざりだと。私は言う。あなた以外の誰が、この状況を変えられるのか。あなたの未来は、あなたが決める。そう気づいた時、つぶやきと舌打ちは、声と行動に変わる。そして、あなたは知る。あなたの力で、世の中を変えた時の達成感を。

 この、いささか抒情的なメッセージの横には、紙面いっぱいに鳩山由紀夫氏の写真。そして、大きな白抜きの文字で「本日、政権交代。」というコピーが躍る。
 そう、この日は第45回衆議院議員選挙の投票日だったのである。
 そして鳩山氏が率いる民主党が史上最多の308議席を獲得して政権交代が決定した。
 鳩山氏が国会で首班指名を受け、民主党政権が発足したのが9月16日。発足直後の内閣支持率は72.0%(共同通信社調べ)にもなった。
 だが、政権交代への大きな起爆剤になった普天間飛行場の「最低でも県外」も、単なる思いつき同然の言葉だったことが次第に明らかとなる。
 政権発足後の9月24日になっても、記者との内政懇談で県外移設について改めて問われた鳩山首相は、「基本的な私たちのベースの考え方を変えるつもりはありません」「県外、できれば国外」と発言していた。

裏切られた国民

 ところが、10月20日に米国のゲーツ国防長官が岡田克也外相と会談。岡田外相は23日の会見で「県外は事実上、考えられない」と表明する。
 鳩山首相もオバマ大統領から日米首脳会談すら拒絶されると、12月4日には

当然ながら辺野古(移設案)は生きている

とあっさり180度の方針転換をした。
 結局、2010年5月4日には首相自らが沖縄県知事のもとを訪問して県外移設断念を伝える。
 記者から〝公約違反〟ではないかと問いただされると鳩山首相は、

(県外移設は)「党としては」という発言ではなくて、私自身の「代表としての」発言。

と開き直った。
 一方〝政治とカネ〟をめぐっても、鳩山首相の政治資金収支報告書に重大な虚偽記載があることが総選挙の前から取り沙汰されていた。
 2009年11月には、東京地検特捜部の捜査が進むなかで、すでに故人となった人物からのものや匿名で処理されていた9億円が、実際には鳩山氏の母親からの資金提供であると判明した。
 この件で公設第一秘書が在宅起訴されたが、鳩山氏は議員辞職を拒否。
 2010年5月28日には、普天間飛行場の移設先を辺野古にする旨を閣議決定。日米共同声明を発表した。
 当然のことながら、内閣支持率は19.3%(共同通信社調べ)まで急落して、鳩山内閣は6月4日に総辞職。在任期間266日の、戦後8番目の短命政権に終わった。
 あの投票日の全面広告に綴られた「政治には裏切られてきた」を、わずか9ヵ月後に日本中の人々が味わう結果となったのである。

失敗した3つの理由

 このあと、民主党は菅直人内閣、野田佳彦内閣と移るなかで内部抗争が激化する。結局2012年12月の第46回衆議院議員選挙で大敗して、わずか3年3カ月で政権から退場した。
 民主党政権という〝実験〟が失敗した理由は、大きく3つ挙げられるだろう。
 第1は、その成り立ちからして、いわゆる「ポピュリズム」的だったことである。

 すなわちポピュリズムとは、政治変革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層(および社会の支配的な価値観)を批判し、「人民」に訴えてその主張の実現を目指す運動とされる。ここではエリートや「特権層」と、「人民」(あるいは「民衆」「市民」)の二項対立が想定される。そして、変革を目指す勢力が「人民」を「善」とする一方、エリートは人民をないがしろにする遠い存在、「悪」として描かれる。(『ポピュリズムとは何か』水島治郎/中公新書)

 冒頭の投票日の新聞広告は、こうした図式を見事なまでに体現している。
 既成の政権は国民を裏切り続ける〝悪〟であり、「こんな暮らしはうんざりだ」と嘆いている虐げられた側が、変革に立ち上がるという物語である。
 自分たちを〝置き去りにされた人々〟〝不利益を被っている側〟に設定し、社会をマジョリティとマイノリティの二項対立に単純化して、善悪のラベリングで分断する。トランプ現象やヨーロッパに吹き荒れているそれである。
 じつは、日本の民主党は2009年にこの手法で政権を奪取していたのである。
 政権の座に就いたあとも、与党内で合意形成ができず、原理主義的に対立しては仲間割れをする。この体質は、のちに下野したあとも続く。
 第2は、政治手法の目玉に据えた「政治主導」が引き起こした機能不全。
 民主党は政権の座に就くと、今度は霞が関の官僚が〝悪〟であるかのような対立の構図を演出し、「事業仕分け」に象徴されるショーアップされた官僚叩きを続けた。
 政務三役による政策決定は官僚との摩擦を決定的なものにし、そのツケは東日本大震災での無策と迷走という形で国民の上に降り注いだ。
 第3は、旧自民党から旧社会党まで、イデオロギーも政治理念もバラバラな政治家を、マニフェストで束ねようとしたことである。
「月額26000円の子ども手当」「ガソリン暫定税率廃止」「高速道路無料化」など、人々の歓心を買うマニフェストを掲げておきながら、その財源を捻出できなかったばかりか、最後にはマニフェストになかった消費増税へと舵を切った。
 マニフェストがことごとく画餅になっていくと、一気に求心力がなくなり、社民党や小沢グループの離脱など、内側から崩壊。
 国民からも見放されて、政権の座から滑り落ちたのである。

今も変わらない体質

 政権交代を決めた総選挙から10年となった8月30日、この民主党政権のど真ん中にいた立憲民主党の枝野幸男代表や、10年前の選挙で民主党から初当選した国民民主党の玉木雄一郎代表は、記者から心境を問われた。

期待に応えられなかった反省と、同じ過ちを繰り返さないということでやってきたつもりだ。(枝野代表)

期待を裏切ってしまったことには真摯な反省とおわびが必要だ。(玉木代表)

 しかし、どうだろう。民主党にいた人々は、政権を失ってからの7年間も、じつは同じように「反・安倍」だけを唱え、共産党などと一緒になって社会を〝善と悪〟に分断するアジテーションを繰り返してきたのではないのか。
 同じ過ちを繰り返しているから、内輪もめの離合集散が止まず、コアな支持層はエキセントリックさを増し、支持率は低迷を続けているのである。
 立憲民主党と国民民主党が合流した先に蘇るのは、国民の「大きな期待」を裏切って無残に散った〝民主党の亡霊〟でしかない。

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