わたしたちはここにいる:LGBTのコモン・センス 第3回 フツーを作る、フツーを超える:トランスジェンダーの生活と意見(前編)

山形大学准教授
池田弘乃

不十分ではあっても法律の制定を急ぐべきか、納得できる法案に煮詰まるまで時間を待つべきか。……国会では、南野、山下、浜四津、松の四人が各党議員間の調整に走り回り、看護師・助産師出身の南野が大政党の自民党をまとめるのに腐心し、弁護士の浜四津は各党の権威ある政調会で、じっくりていねいに説明をくりかえした。……野党を含め、各党の代表議員を、ともかくも味方にすることに専念し、なんとか合意をとりつけることができた。参議院の本会議で、全会一致で法案の可決が決まるとき、「男が女になる?」「なんだ!これは?」と、野次が飛び、議場がざわついたが、各党の合意ができていたので反対はできないしくみになっていた。
「してやったり。あれは奇襲作戦で、まさに作戦勝ちでした」
南野、山下、浜四津、松は喜びあう。
(谷合規子『性同一性障害――3.11を超えて』、2012年、論創社、266頁)
ここで話題になっているのは、本文で後述の「性同一性障害特例法」のことである。

トランスジェンダーとシスジェンダー

「心の性」という言葉がある。不思議な言葉である。関連して、「身体は女だけど、心は男(あるいは、身体は男だけど、心は女)の人」という表現がされたり、「身体の性と心の性が食い違っている人」という表現がされたりする。「うんうん、聞いたことがある。性同一性障害っていうんでしょ?」と思われた読者もいることだろう。自己理解のために、そしてそれを他者に伝えるために「心の性」という言葉を使うのがしっくりくる人がいる。それを否定すべきでない。
 しかし、同時に「心の性」という言い方ではない表現の仕方もあるのだということは知っておいてよいのではないだろうか。本連載でSOGI(性的指向と性自認)として紹介してきた言葉のうちGIがここに関わってくる。GI、すなわちジェンダー・アイデンティティ(性自認、性同一性)である。
 トランスジェンダーという言葉については、連載の第1回で「出生時に割り当てられた性別と異なる性別を生きる人」と表現しておいた。この言葉の登場は1960年代の米国にさかのぼれるようだが、1990年代になる頃には「性別についての規範や期待」にとらわれない生き方、性別についての様々な変奏(variation)の様子を幅広く包括する言葉として用いられるようになっていく※1。略してトランスということもある。
 移行のあり方によって、FtMやMtFという言葉が使われることがある。出生時割当が「女性」で、本人のアイデンティティが「男性」の場合がFtM(“Female to Male、女性から男性へ”の略)。出生時割当が「男性」で本人のアイデンティティが「女性」の場合がMtF(”Male to Female、男性から女性へ”)である。FtMではなく「トランス男性」という言葉も使われるし、MtFではなく「トランス女性」という言葉も使われることがある。男女の二分法では表せない様子をXとして表現することもある。XジェンダーやFtX、MtXという言葉が使われる。ノンバイナリー(nonbinary)やジェンダークィア(genderqueer)※2という英語に由来する言い方もある。
 これらに対して、出生時に割り当てられた性別と自分のジェンダー・アイデンティティが同じ人、いわば社会のマジョリティを占める人々のことをシスジェンダー(cisgender)という。シス(cis)は「トランス(超えて、向こう側の)」に対して「こちら側の」という意味である。
 日本では、当事者たちが育ててきた「トランスジェンダー」という言葉よりは「性同一性障害」という診断名の方がより一般に知られてきたかもしれない。現時点であらためて考えてみるならば、出生時に割り当てられた性別と異なる性別を生きようとすることは、それ自体「疾患」であるはずはない。とはいえ、性別を移行しようとするときには様々な医療的なケアが必要となる当事者もいるのは事実である。そこで使われてきたのが「性同一性障害(Gender Identity Disorder)」という診断カテゴリーであった(略語のGIDも、日本では当事者を中心によく使われる)。ちなみに、国際的には「障害」という位置づけをやめ、「性別違和(gender dysphoria)」や「性別不合(gender incongruence)」といった名前への改正が進んでいる※3

※1…Susan Stryker(2017) Transgender History: The Roots of Today’s Revolution〔Revised edidion〕, Seal Press.
※2…いずれも「男女の二分法(binary)に当てはまらないこと」を表現するために用いられる。
※3…アメリカ精神医学会の最新版マニュアル(DSM-5)では「性別違和」が、世界保健機関(WHO)の最新版の分類(ICD-11)では「性別不合」が使われている。詳細は、針間克己(2019)『性別違和・性別不合へ』緑風出版を参照。

自分らしさをめぐる旅

 今回は、性別を「超える」という経験についての私たちの常識をアップデートするために、九州在住のあるトランス男性たくやさんとその女性パートナーしずかさんにお話をうかがうことにしよう。2人とも、前回までのインタビューに応じてくださった方々と同様に筆者の古い友人である。たくやさんは1973年生まれの48歳。しずかさんは1974年生まれの47歳である。
 たくやさんが出生時に割り当てられた性別は女性だった。たくやさんには、5歳上のお兄さんがいる。3歳頃のたくやさんは、同年代の「女の子向け」のアニメ・キャラクターのグッズよりは、兄と同じ戦隊モノ(や仮面ライダー)のグッズを欲しがる子だった。しかし、母親は長女であるたくやさんを「女の子らしく」育てたかったようだ。ことあるごとに「女らしくあるべきだ」と教えられた。でも、たくやさんはともかくやんちゃな子どもだった。小さい頃から同級生の男の子たちと野山を駆け巡る毎日。女の子の格好をした写真もほとんど残っていない。たくやさんは当時の写真を1枚見せてくださった。そこに写っているのは半ズボンをはいた活発そうな男の子だった。
実はたくやさんが通う小学校には男女指定の制服があったらしいのだが、たくやさんは制服を着て通学した記憶がない。いつも半袖半ズボンの体操服で通っていた。ずっと後に知ることになるのだが、たくやさんの学校がある地域では、国籍の違い、障害の有無、被差別部落等々について、人権の観点から学習する取り組みが粘り強く進められてきていたという歴史があった。たくやさんが服装に頓着せず通学できたことにも、そのような背景があったのかもしれない。特別な学校行事や、七五三の時に女性の格好をさせられると、たくやさんは泣いて抵抗していた。
 たくやさんは、制服だけではなくそれ以外の様々な場面でも決まった枠に収まらない個性的な小学生だった。実は、小学生時代の最初の頃は、宿題を1回もしたことがなかった。宿題は出ていたようなのだが一切覚えがないという。制服は肩にかけて体操服で通学し、勉強も全然できない。いろんな点でこだわりの強い子だった。3年生くらいの時、母がこのままではまずいと思い立ち、たくやさんにきちんと勉強をさせるようになる。
 当時のたくやさんは、「自分が男ではないこと」は重々わかっていた。例えば、「いつかは自分の体におちんちんが生えてくるんだ」と思ったことはない。お兄さんとの身体の構造の違いもはっきりと認識していた。それでも、日々の暮らしの中で、自分らしい振る舞い、世間的には「男の子」と分類されるような振る舞いを伸び伸びとできていたので、小学生時代のたくやさんには「自分の性別の悩み」というものはあまりなかった。
 その頃から「可愛いな」と思う相手は女の子だった。ただ、まだこの頃はそれが恋と呼ばれるものなのか、強い友情なのかはわからなかった。ある調査によると、トランスジェンダー当事者が自身の性別への違和感を自覚した年代としては、小学校入学以前が半数を占める※4。自分が実感する性別、自分にとってしっくりくる性別が何であるか、もっと堅い言葉で言うなら自分の性別に関わるアイデンティティ(ジェンダー・アイデンティティ)は何かについて、各人がその人生の早い時期から意識していることがわかる。
 ジェンダー・アイデンティティが出生時に割り当てられた性別と異なるものであるとき、その人の生活は様々な困りごとを抱えることにもなっていく。それだけ今の世の中は性別の男女2分法とシスジェンダーである人とを前提に組み立てられてしまっている。ちなみに、ジェンダー・アイデンティティと比べると性的指向については、それが「多数派(異性愛)とは異なるものかもしれない」ことの自覚は、もう少しだけ年齢を経てから自覚されることが多いようである。

※4…中塚幹也(2013)『学校の中の「性別違和感」を持つ子ども――性同一性障害の生徒に向き合う』(JSPS 日本学術振興会科学研究費助成事業 23651263)

選択肢が狭まっていく

 たくやさんの場合、転機が訪れたのは、小学校を卒業し中学に入学するときだった。中学の女子用制服であるセーラー服を着なければならないことに強いショックを受けた。そして、急速に自分を閉ざし始めていった。「とにかく目立たないように」という思いがいつも先だった。そうしていないと自分を保つことができなかった。セーラー服を我慢して着て通学していたが、すぐに限界がきた。それからは、体操服で学校に通うようになった。普段の授業だけではなく、式典の時もそうだった。
 実は、そんなたくやさんをからかったりいじめたりする同級生たちはいなかった。なぜなら、お兄さんがヤンキーのグループにいたため、他のヤンキーたちがたくやさんのことも「〇〇さんの妹さんっすか。変わってるけど、まぁこれはこれでいいか」と、何となくの承認(?)を与えたような恰好になっていったからだ。
 中学生になると、女の子の友だちへの恋愛感情をはっきりと自覚するようになっていく。好意を抱いている女の子から「✕✕くんが好きなんだ」という相談を受けることもあったが、何とも言えない焼きもちの感情を感じていた。でも、そんな気持ちを周りに打ち明けることはできず、その女の子のことを「友だちとして好きなんだ」と思うよう自分に言い聞かせていたという。
 シスジェンダーの人々の性的指向が多様であるように、トランスジェンダー当事者の性的指向も様々である。たくやさんは異性愛の性的指向を有するトランス男性であるということになる。読者の皆さんと共に念のため確認しておきたい。「女の子が好き」だから・・・「たくやさんは男の子」なのではない・・・・・・。「男の子」であるたくやさんが「好きになるのは女の子」だったということである。トランスジェンダーの人々の中にも、同性愛、異性愛、バイセクシュアル、アセクシュアル等々の様々な人々がいる。
 思春期を迎える年代になると、たくやさんの身体にも様々な変化が出てきた。特に、胸(乳房)が発達していくことはすごく嫌だった。歩くときも自然と猫背になってなるべく胸が目立たないようにしている自分がいた。変化してしまう自分の身体への違和感は徐々に強まっていく。とにかくそれが嫌で、人には絶対見られたくないという思いが強まっていく。体育などの場面での着替えは本当に苦痛だった。部活動は、小学生の頃男子と一緒に励んでいた野球をやりたかったが、中学の頃になると集団のスポーツには気おくれするようになっていった。生活の様々な面で徐々に選択肢が狭まっていくような感覚があった。
 一方、その頃のたくやさんは、勉強にはとても熱心に取り組むようになっていった。自分の性のこと、身体のことを忘れようとした訳ではなかったけれど、勉強に意識を集中させ力を入れる一方で、自分らしさを閉じていくようになっていった。
 高校生になると、たくやさんは「女として生きていかなければならない」と覚悟を決めるような思いで、女子の制服(スカート、ブレザー、ブラウスにリボン)を身にまとい通学するようになっていった。
 もしかしたら「女らしくすれば」変われるかもしれない、「男性を好きになれば」変われるかもしれないと思い、自分の感覚を「治す」こと、「修正」することを試みた。いってみれば、「自分らしさ」よりも「女性らしさ」を優先することにしたのだ。この頃、たまたま再会した小学校時代の恩師からは、たくやさんが別人のように大人しくなっていたことをとても驚かれたという。それほどにたくやさんは自分らしさを封印して生きるようになっていた。トランスジェンダーの当事者自身も、社会で規範とされている「女らしさ・男らしさ」を内面化したり、内面化しようしたりすることがある。いや、トランスジェンダーの場合、少しでも安全に暮らすために、好むと好まざるとにかかわらず、「らしさ」の内面化を試みざるを得ない状況になることがあるのだといった方がよいかもしれない。
 高校時代について、たくやさんには何が楽しかったのか一切記憶がない。将来の夢も何もなかった。ただただ勉強をしていた。それでも、自分の中のモヤモヤとした思いは募るばかりで、生きていても面白みがなかった。目に映る風景はただひたすらグレーなものだった。誰かを好きになるということもなかった。例え好きになりそうなことがあっても気持ちを押し殺していた。学校では、様々な女子生徒のグループのうち特定のグループには属さず、どのグループの子とも話すけど、誰かに心を開くということはなかった。自分じゃない自分を演じることは楽なことではなかった。かといって、男子のグループにもいけなかった。誰に対しても「自然な振る舞い」ができなくなっていった。どう接して良いかわからないので、頭の中で「フツーならこういう話をするのかなぁ」と想像しながら、一つ一つのコミュニケーションを行っていく感じだった。
 そして、進学した大学では、たくやさんはすでに「自分らしく」生きることについて全くあきらめきっていた。「女になりきろう」と決意した。髪を伸ばし女性らしいヘアスタイルにして、女性向けのファッションを身にまとった。彼氏を作ることも試みた。しかし、相手を振り向かせようといろいろ試みてはみたものの、いざ本当に相手が振り向くと、さーっと気持ちが覚める自分に嫌気がさして、彼氏を作る試みは半年余りですぐやめた。髪はあいかわらず長かったが、スカートはやめジーンズにすることが多くなってきた。外から見たらおそらく地味な女子大生風という感じだったろうと本人は言う。
 この頃、バブルがはじけ社会を経済不況が襲ってきた。たくやさんはアルバイトで学費を稼ぎながら学業を続ける。自分の性を考える余裕はあまりなくなっていった。バイトでは化粧が求められず女性用の制服を着用しなくてもよいものを選んだ。そんななか、たくやさんは法学部生だったこともあり、法律系の資格を取ることを思い立つ。集中的に勉強し在学中に行政書士の資格を取得する。「性同一性障害(GID)」という言葉に出会ったのは、その頃であった 。(第4回 後編に続く)

シリーズ:「わたしたちはここにいる:LGBTのコモン・センス」
第1回 相方と仲間:パートナーとコミュニティ
第2回 好きな女性と暮らすこと:ウーマン・リブ、ウーマン・ラブ
第3回 フツーを作る、フツーを超える:トランスジェンダーの生活と意見(前編)
第4回 フツーを作る、フツーを超える:トランスジェンダーの生活と意見(後編)


いけだ・ひろの●1977年東京生まれ、山形大学人文社会科学部准教授。専攻は、法哲学、ジェンダー・セクシュアリティと法。編著に、綾部六郎・池田弘乃編『クィアと法:性規範の解放/開放のために』(日本評論社、2019年)、 谷口洋幸・綾部六郎・池田弘乃編『セクシュアリティと法: 身体・社会・言説との交錯』(法律文化社、2017年)。論考に、「「正義などない? それでも権利のため闘い続けるんだ」――性的マイノリティとホーム」(志田陽子他編『映画で学ぶ憲法Ⅱ』、法律文化社、2021年)、「一人前の市民とは誰か?:クィアに考えるために」(『法学セミナー』62巻10号64-67頁、2017年)などがある。