わたしたちはここにいる:LGBTのコモン・センス 第5回 社会の障壁を超える旅:ゆっくり急ぐ

山形大学准教授
池田弘乃

 日本では、あまりにも概念だけが独り歩きをする。概念は簡単に流行語のようになって、「セクシュアリティーだ」ということになったら、それはもうただ「セクシュアリティー」で、それだけがナダレのように押し寄せて来る。押し寄せて迫って来て、そしてそれは流行だから、時がたてば忘れられてしまう。だったら、そんな概念にはなんの意味もないと、私は思う。はやりすたりのある“概念”なんかよりも、「常にある“なんだか分からないもの”」という留保の方が、私にはとっても重要のように思われる。(橋本治『ぬえの名前』、岩波書店、1993年、294頁)

二分法をトランスする

 生まれたときに登録された性別とは異なる性別を、生きる人、生きようとする人、表現する人。そのことをトランスジェンダーという言葉で表現することがある。前回は、たくやさんという友人にトランスの経験を聞きに行ったのだった。今回も、私はもう一人大事な友人に会いに行くことにした。トランスに関わる話にまた別の角度からじっくりと耳を傾けてみたいと思ったのである。
 もちろん、10人のトランスジェンダーがいれば、10人の(あるいはそれ以上の[※1])異なった人生が浮かび上がってくるにちがいない。とはいっても、それらはおそらく全く個々別々のものということもなく、重なり合う部分も持つだろう。現在の社会が女性集団と男性集団について様々な格差[※2]や不平等を含み持っており、女性らしさと男性らしさが一人一人の生き方にいまだ大きな影響を及ぼすことも多い以上、トランスの経験も、登録された出発点が女性か男性か、移行の方向性が男性か女性か、あるいはそれ以外かによって左右される部分も大きい。
 男女平等、あるいは男女共同参画[※3]というテーマは、多様な性の尊重という課題と地続きである。もちろん単純に並べるといろいろなものが見失われるし、「男女」の平等というアプローチは男女の二分法で捉え難い問題をぼやけさせてしまう可能性に注意すべきだ。かといって、「男女平等の話はもういいから、LGBTQの話を!」といった、「新しもの好き」では、重要なものが抜け落ちてしまう。多様な性の尊重を考えるときには、常に、男女平等という古くて新しい論点との共鳴や緊張を意識しておきたい。
 トランス男性の話の次に、今度はトランス女性の話「も」つづった……この連載もそのようにみえるかもしれない。しかし、筆者からすればそれは誤解であると弁明したい。トランスジェンダーという言葉に向き合うとき、性別に関するアイデンティティ(自分自身をどう実感し、どう把握し、どう生きるか)の話が、男女の二分法で済むと想定すること自体が疑わしくなる。
 典型的な「男性性」や「女性性」を求めたり表現したりするトランスジェンダー当事者がいたとして、その生き方を非難しようとする人が万が一いたら、こうお伝えしたい。性急に非難する前に、この社会では、どのような性のあり方が許容されているのかにまず目を向けていく必要はないでしょうか、と。今、この世の中では、どのような生き方の幅が可能で、どのような表現の可能性が保障されているだろうか。トランスジェンダーであれ、シスジェンダーであれ、それは十分な広さをもっているだろうか。
 今回お話をうかがった美奈さんが、生まれときに登録された性別は男だった。それでも、もう5歳になるかならないかくらいから、美奈さんは「自分は男の子だろうか」という違和感を覚え始めたという。昨年、50歳を迎えた美奈さんは女性として暮らし、働いている。その美奈さんの経験を、前回のたくやさんの経験[※4]を思い出しながら、聞いていただければ幸いである。

※1…シスジェンダー(出生時に登録された性別と性自認が同じ人)の人も、トランスジェンダーの人も、社会生活において、複数の人格だったり役割だったりを同時並行的にこなす、ということがあるだろう。
※2…2点だけ2021〔令和3〕年のデータをあげておこう。第1に、一般労働者の男女間賃金格差は男性100とすると女性75.2である(厚生労働省『令和3年賃金構造基本統計調査の概況』)。第2に、家事関連時間は1日あたり女性3時間24分に対し、男性51分である。(総務省『令和3年社会生活基本調査:生活時間及び生活行動に関する結果』)
※3…政府による英訳では、こちらもgender equality(ジェンダー平等)とされることが多い。例えば、男女共同参画社会基本法(平成11年法律78号)は、Basic Act for Gender Equal Society (Act No. 78 of 1999)と訳されている。
※4…第3回 フツーを作る、フツーを超える:トランスジェンダーの生活と意見(前編)第4回 フツーを作る、フツーを超える:トランスジェンダーの生活と意見(後編)

障害と共に生きる

 中国地方のある都市に生まれた美奈さんは、1歳の頃、脊髄の病気を発症した。40度の高熱が続き、いくつかの病院で手当てが試みられるが好転せず、結局、ある大きな病院で手術を受けることで一命をとりとめた。手術後、親には医師から「一生寝たきりですね」との告知があったが、入院中の美奈さんは自分でベッドの手すりや脚をつかみながら立とうと試みていたそうだ。その闘志のおかげか、一年が経った頃には、足をひきずりながらも歩けるようになった。
 幼稚園に入る頃には、足の障害をもって生きる自分が他人とは違うということに気づく。でも、周りの友人たち(女友達の方が多かった)と美奈さんは互いを尊重し合いながら幼稚園生活を送っていく。遠足のとき、美奈さんには親が付き添った。運動会のときには、周りより遅くてもいいから競技に参加させるというのが親の方針だった。
 美奈さんには直腸膀胱障害という障害があり、物心ついたころからトイレは座ってしていた。だから、トイレのときに自身の性別について違和を感じるということもなかったそうである。
 小学校にあがるとき、特別支援学級(当時の言葉では養護学級などと呼ばれていた)に行くかそれとも「普通」学級に行くかという選択の問題が出てくる。美奈さんの親は普通学級に行かせる道を選んだ。学校側もその決定をサポートしてくれることになる。
 小学校5年生になる頃には、自身が男として扱われることに強い違和感を覚えるようになっていた。美奈さんには妹が2人いる。小さい頃から、妹の服を着たり、幼なじみの女の子と一緒に遊んだりするのは当たり前だった。それが「普通」だと思っていた。
 その「普通」が、学校にあがると、周りの男の子たちからからかわれるようになった。「足が悪い」自分にとって、周りの男の子たちと同じような運動も難しかった。そんなとき、小さい頃から一緒に遊んできた女の子たちとの関係性が美奈さんを支えていく。「周りに恵まれたんよ」と美奈さんは述懐する。幼稚園からずっと過ごしてきた子たちはみな優しかった。ある友だちがよくこう言ってくれたのを覚えている。「カバン、そこまで持っちゃろう」。

 中学校にあがると制服があった。公立学校だったが、男子の制服は学ランで、軍隊のようだと思ったことを覚えている。当時はブレザー型の制服もほとんどなかった。制服を選択できるという仕組みは想像すらできなかった。学ランなんか着たくなかった美奈さんは、女子生徒のセーラー服に憧れた。まだまだ課題も多い日本の学校だが、それでも、いろいろな人々の地道な実践の積み重ねで、現在では制服選択制を導入するところも増えてきている。
 小学校よりも広い地域から生徒たちが集まってくる中学校では、いじめがあった。そんなとき、幼稚園からの幼馴染の同級生たちが守ってくれた。彼らは同郷の友人がいじめられているのを、見て見ぬふりはしなかった。
 中学時代になっても、自身の性別に関する思いは一切明かさず隠していた。部活動は剣道部に所属することになった。着替える際に、身体がみられるのがいやで、下着のTシャツは脱がずに胴着を付けていた。なぜ剣道部だったかというと2つのわけがある。一つは、袴を着用すれば、足が人目に触れることがないから。自分の足がそのまま露出するのは避けたかった。もう一つは、剣道部では男女一緒で稽古を行うから。そこではことさらに男女が区別されることはなかった。
 剣道部の一年生「男子」はみな坊主頭にすることになっていた。ご丁寧に1ミリメートルに切り揃えるのが決まりだった。美奈さんは最後まで抵抗したが、結局抗いきれず頭髪を切られてしまった(それでも2ミリメートルのところで止めてもらった)。これ以外にも様々なおかしなルールがまかり通っていた。近年、理不尽な校則への疑問の声も大きくなってきているが、まだまだ状況が大幅に改善したとはいえないかもしれない。学校が理不尽な校則に生徒を一方的に従わせる空間である限り、その社会の民主主義は甚だ心もとないものであるほかないだろう。これはもちろん「女らしさ/男らしさ」に関わる校則に限った話ではない。
 学校生活ではプールの時間が嫌だった。それでも仕方がないと思ってあきらめていた。性別についての知識もなかったし、インターネットもまだ一般化していなかったから、調べようにもその手段がわからなかった。

テレビでみた当事者

 その「知識」は意外なところから現れた。テレビ番組『笑っていいとも!』で、ミスター・レディー[※5]が登場する企画を目にしたのである。1988年頃のことだった。ニューハーフ[※6]という言葉もそのとき初めて聞いた。「性別って移行できるんだ」という驚きがあった。ホルモンの投与や手術による身体の変化が可能であることも知り、自分でも「こうなれるかも」と思った。
 とはいえ、そのとき美奈さんはまだ高校生。男子校に通っていた。今から振り返ってみると共学に行っておけばよかったと思うこともある。しかし、当時の自分にとっては、共学校だと逆に、いろいろな場面で女子と男子が区別されることが辛かったはずだとも思う。ちなみに、男子校は名前に「男子」とはつかないので、ちょっと地域が違えば高校の名前だけで「男子校」だとわかることはあまりない。これに対して、女子高は校名だけで女子校とわかることも多く「〔トランス男性の出身校の場合は〕大変だと思う」とは美奈さんのつぶやきである。
 学校生活はストレスの多いものだった。特に嫌だったのが、体育などでの着替えの場面だった。自己の身体が他人の目にさらされるのは苦痛だった。高校のときもやはり頭髪の規則はとても厳しく、規定の長さより少しでも長ければ、学校最寄りの理髪店に直行して切り揃えさせられることになっていた。その一方で、学校生活はストレスばかりというわけではなく、生徒達には実にいろんな人たちがいて楽しかった。恋愛についても、女の子を追い回している子もいれば、全く興味のない人もいた。そして、「この人、多分、男の人が好きなんだろうな」と推察できる同級生もいた。自分自身の性別に関する思いを隠していた美奈さんには、その同級生も、「隠しているんだろうな」ということが直感でわかった。例えば、同級生を見つめる時のまなざしのあり方や、何気ないボディタッチの様子からである。自分自身はといえば、男の人を見つめることはなかったし、見られるのも嫌だった。
 高校を卒業すると、最初は金融機関に就職した。そこはきっちりスーツにネクタイの着用が求められる職場だった。そんななか、高校時代に遭遇した「ミスター・レディ」という言葉を思い起こした美奈さんは大きな目標を抱くようになる。自分の思いはずっと我慢して隠して生きていかなければならないと思っていたけど、我慢するのはやめることにした。時間はかかっても、自分が自分らしく生きられる道を切り開いていこうと決意した。
 美奈さんは、まず服装も含めより自由度の高い職場の事務員に転職した。徐々に伸ばし始めた髪はやがて肩に届くくらいになる。上司には小言を言われたが、絶対に切らなかった。そして、将来の性別適合手術のためにお金を貯めようと一生懸命働いた。その頃、ニューハーフが接客する地元の飲み屋にも行ってみた。『笑っていいとも!』などをきっかけに、当時のテレビでは、ニューハーフを「面白おかしく」扱う番組がいくつか放映されていた。そのうちの一つに出演していたニューハーフの方は、美奈さんの地元に近い地域の人だった。番組では所属店名も表示されていたので、美奈さんは早速行ってみることにした。ただのお客さんというよりは、自分のことを相談するつもりで。
 そのときの美奈さんの容姿は髪型も含めまだ典型的な「男性」だったが、こちらがカミングアウトするより前に、そのお店のニューハーフさんから「あんたはこっちの人間じゃろ?」と先制パンチがあった。真摯に相談を聞いてくれたその人は、「もし真剣に女性に移行する気があるなら、教えてあげる」と言って、女性ホルモンの投与を受けられる地元の病院を教えてくれた。
 当時の美奈さんは親元で暮らしていたが、24歳になったころ一人暮らしを始め、プライベートな時間は、女性の服装で出かけることも多くなってきた。そして、27歳になるかならないかという頃、「性同一性障害(GID)」という言葉に出会う。日本では「公認の医療」としては行われてこなかった「性別適合手術」を埼玉医科大学が初めて行ったのが1998年のこと。それは大きなニュースになっていた。

※5…言葉としては、「先行して用いられていたニューハーフとまったく同義と考えてよい」。(井上章一他『性の用語集』、講談社現代新書、2004年、197頁〔三橋順子執筆〕)。ニューハーフについては次注を参照。
※6…「女装した男性であること、あるいは「性転換」した元男性であることを特性のひとつとして、接客業(ホステス)、ショービジネス(ダンサー)、性風俗産業(セックスワーカー)などに従事している人たちを指す呼称」であり、職業カテゴリーないし職能集団として捉えるのが実態に即している(前掲書192-193頁)。

移行期間の設定

 その後29歳のとき、美奈さんは仕事をやめ、職業訓練校に入学する。このときホルモン投与を開始する。それは、いわば「非公式」の自由診療としてであった[※7]。すでに髪を伸ばし始めていた美奈さんは、訓練校にいる2年間を「社会的に女性として見られるようになる移行期間」に設定することにした。公衆トイレにせよ、その他のいろいろな場面にせよ、最初から「女性として受け入れられる」ことにこだわるのではなく、徐々に移行することにした。ホルモンと日々の試行錯誤によって、見た目も少しずつ女性的なものに変化していった。
 そして、「公式ルート」で国内での手術を受けるために、GID診療を開始した某大学病院を受診することにした。地元から最も近いその病院ですら、新幹線でなければアクセスは難しかった。現在の日本でも、トランスジェンダーの当事者のうち、医療的ケアを求める人が適切な医療機関に巡り合うことはまだまだ容易なことではない。
 手術をするために苦労はいとわず「治療」に臨む気持ちは強かったが、その大学病院の精神科医の問診は非常に形式的で、一定のチェック項目を流れ作業で確認するものにすぎないように感じられた。この医者に自分の様々な悩みを話しても意味がないと思い、手術に至るためのプロセスと割り切って問診に応じていった。GIDで受診しているのに、病院のトイレは「男子トイレ」に行けと言われる。開始当初のGID診療はそんな様子で病院側も試行錯誤の繰り返しだった。
 手術へのプロセスを進んで行くうち2年間がすぎ、美奈さんは訓練校の卒業を迎える。卒業後の進路は、女性として事務員の仕事を勝ち取ることができた。当時はまだ出生時の男性の名前だった美奈さんは、就職の面接の際、履歴書に「美奈」という女性名も書き添えた。面接の際に説明すると、先方は驚いていたようだったが、ここで美奈さんが自分に設定した「移行期間」が活きてくる。急ぎ過ぎず徐々に移行してきた美奈さんの様子は「地に足の着いた」ものだった。女性として、女子制服を着て、女子更衣室を使用しての勤務が始まる。戸籍上の名前も「美奈」に変更した[※8]。会社での使用実績というのは裁判所に対しても大きな説得力があった。
 もちろん、移行のあり方に一つの正解はないが、美奈さんは「急ぎすぎず、徐々に」という方針が自分にあっていたと感じている。もちろん、一刻でも早く移行したいという当事者の気持ちは美奈さんにも痛いほどわかる。それでも、「今すぐ変わりたい」という思いをそのまま表に表出するのはうまくいかないことが多いと思うのだ。
 訓練校での2年間の移行期間の終盤には、女友達と遊んでいて美奈さんが男子トイレ(もちろん個室)に入ろうとすると、「あんた、〔男子トイレに入ったら〕危ないけえ、女子トイレにはいりんさい!」と言われるようになっていた。トランス女性の公衆トイレ利用というのは、ときにセンセーショナルな「課題」であるかのように取り上げられることも多いが、ほとんどの当事者にとって、自他の安全性を勘案しながら、どのような利用形態がよいのかを徐々にすり合わせていくプロセスである。架空の憶測の下に議論するのはとても危険である。
 女性として働き始めて5年ほどたち36歳になった美奈さんは、ついにGID診療のプロセスの大きな目標だった性別適合手術のステージにたどり着く。少ない診療の門戸に手術を希望する当事者がつめかけていたため、順番待ちとなることはわかっていたので、「やっと」との思いがあった。

※7…それが「非公式」であることを捉えて、当事者や医師を非難するのは全くの筋違いであろう。当事者の切実な思いがあり、それに応じていた医師たちが少数とはいえ様々な地域にいたということである。
※8…戸籍法107条の2により、「正当な事由」があれば、家庭裁判所の許可を得ることで、名を変更することができる。性別変更の手続きとは独立した別の制度である。

「がんばってきんさい!」

 手術の日、新幹線で大学病院に向かう朝、駅には親が見送りにきてくれた。翌日の手術の際には、何かあったときのために遺書をしたためた。後で看護師さんにきいたところによると、手術では出血がひどく貧血となり大変だったそうだ。手術後1週間入院した際には、親も見舞いに来てくれた。
 親へのカミングアウトは、まずお母さんからだった。「仕方ない」という反応だった。お父さんへのカミングアウトは、「今日、いや明日には……」と逡巡しているうちに1カ月がたってからだった。『性同一性障害って何?』[※9]という本を「読んでみて」と伝えるところから始めた。カミングアウトを受けたお父さんからは、明確な肯定の言葉こそなかったが「手術までするなら、綺麗な女性になりなさい」という反応が返ってきた。この言葉は「女性は綺麗でなければならない」というステレオタイプの押し付けなのだろうか。そうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。娘の決意を受け父が絞り出した「現実的な」励ましでもあったのかもしれない。この「綺麗な」という言葉が、生き方そのものを形容するものなら、そこには単なるステレオタイプにはおさまらない広がりがある気もする。実は、お父さんには職場の知人から「〔その知人の〕子どもが性同一性障害で……」という相談が寄せられていたことが後にわかる。本を読む前からお父さんは自らで一定の情報を知ろうとしていたのだった。
 妹たちにもカミングアウトしたが、妹さんたちからすれば「兄ちゃんが姉ちゃんになっただけ」という受け止めだった。今では、妹や姪っ子たちから「美奈姉」と呼ばれ過ごしている。美奈さんの知人の中には、性別のことがつらくて、一気に全面的に性別移行を試みるが、うまくいかず自死に至ってしまった人もいる。そんなこともあって、美奈さんは、「徐々に」ということの大事さを、年下の当事者から相談を受けるときにも常に念頭においているそうだ。
 美奈さんは、手術から3カ月後、戸籍上の性別を変更する。その美奈さんには、15歳年上のパートナーがいる。美奈さんは、幼いころから、異性すなわち男性が好きだった。それでも、自分が性別移行するまでは恋愛はしないと決めていた。そのパートナーとの出会いは、今から15年くらい前のこと。手術をする少し前の頃だった。彼は初めて会ったときから美奈さんを女性だと思っていたので、カミングアウトされたときは意外な気持ちを抱いたそうだ。美奈さんはその彼と婚姻する。

※9…野宮亜紀他『性同一性障害って何?:一人一人の性のありようを大切にするために』(緑風出版 、2003年)。2011年に同書の増補改訂版が出ている。

障壁のない社会へ

 美奈さんは、今、障害者雇用という形態で公務員として働いている。この形態だと任期付きのことが多い。勢い転職も多くなる。3年任期という場合が多いが、3年ごとに求職活動をしなければならないのはとても大変だ。ここには、国全体の施策のゆがみがあらわれている。例えば、公務員の数自体はスリム化せよという要請が強くなっている一方で、障害者を雇用せよとも言われると官公庁は、非常勤や任期付きという形態で、法定雇用率を達成しようとする。そのような働き方では当事者にモチベーションもわきにくく、かつステップアップの機会もなかなかない。
 障害者雇用一般にまつわるいろいろな問題に加えて、美奈さんの場合、3年に1回履歴書を書かなければならないというのは「難しい」課題だ。地元なら、美奈さんの出身高校名を見ただけでほとんどの人はそれが「男子校」だとわかる。社会生活上も、戸籍上も女性だけれど、履歴書を見た相手には、自身の性別のことを説明しなければならなくなる。そのことも大きな原因となって、美奈さんは東京で仕事を探すことにした。それでも、障害者雇用のマッチングはなかなか難しい。やっと採用にいたった美奈さんは単身赴任を覚悟していたが、パートナーは仕事を辞めて一緒に東京に出てきてくれた。彼も東京で仕事を見つけ、今は夫婦共働きで暮らしている。
 インタビューの最後に、私は美奈さんに「トランスジェンダー」という言葉をどう思うか聞いてみた。「自分ではあまり使わない」ということだった。手術を経て、戸籍を変更した今、そもそも自分のことを話す機会もほとんどない。もちろんトランスジェンダーという言葉がしっくりくる人も、そうでない人もいて当然である。この言葉がこれから日本語として、どのように育っていくのか。他者を裁断するための道具としてではなく、自他の相互理解のための言葉としての展開を願いたい。
 性同一性障害特例法の要件を満たして、性別を変更した美奈さんは、特例法の現状についても、基本的に受容する立場だ。特例法の要件については、様々な議論がある。この連載でも、第4回で、最高裁は今のところ特例法の各要件について合憲と判断していることをご紹介した。ところが、その最高裁は、この12月、「手術」要件の合憲性について、今度は大法廷で審理することを決定した[※10]
 現在の最高裁の立場を復習してみよう。2019年の決定で最高裁第二小法廷は、法律上の性別を変更する条件の1つとして生殖能力除去を要求する特例法の条文が合憲であるとの判断を示した(最高裁第二小法廷平成31〔2019〕年1月23日決定、『判例タイムズ』1463号74頁)。第二小法廷の多数意見は、生殖腺除去手術を望まない当事者にとって、特例法の要件が「その意思に反して身体への侵襲を受けない自由を制約する面もある」ことは認めている。しかし、親子関係等に関わる社会の混乱や急激な変化を避ける配慮などが立法の背景にはあり、「現在の社会的状況等を総合的に較量すると、本件規定は、現時点では、憲法13条、14条1項に違反するものとはいえない」とした。鬼丸かおる・三浦守両裁判官による補足意見は「現時点では、憲法13条に違反するとまではいえないものの、その疑いが生じていることは否定できない。」ともう一歩踏み込んだ表現をしている。「現時点では」違憲とまではいえないが、「このような規定の憲法適合性については不断の検討を要するものというべき」というのが最高裁の立場である。その意味では、2019年決定の先例としての効力はそれほど強いものとはいえない[※11]
 今回、3年という時間の経過を経て、特例法の要件が再び大法廷で審理されることになった。最高裁が新しい憲法判断を示す可能性もある。どのような判断が下されるのか注目していきたい。もちろん、国会が知恵を絞って法改正に向けて動き出すことも期待したい。党派を問わず国会議員にはその良識を備えた人々が少なからずいることを私は信じている。
 美奈さんは、辛いことも多かったけど、焦らずに順序を決めて、大きなグランドデザインを描きつつ進んできた自分の移行のあり方に誇りを感じている。むしろ、今、感じるのは「障害者として」日々直面する様々な社会的障壁[※12]だ。例えば、登山を趣味としている美奈さんだが、歩くのはどうしても速くはできないので、ツアーでの参加は困難である。バリアフリーでないところもまだまだたくさんある。障害者がいることを前提にした企画が増えることを美奈さんは願っている。
 美奈さんは今日もまた山に登る。足取りはたしかに他の登山者よりずっとゆっくりかもしれない。汗だくになることもある。それでも、ふと気づけば着実に多くの難所を乗り越え、他の人が見ることのない景色をまた一つ、また一つと眺め、自身の人生を日々豊かにしている。「焦らずに、一歩ずつ」をモットーとしてきた彼女の姿は、とても綺麗で気品がある。
 様々な制度の変革が遅々として進まないようにみえる日本の現状に焦燥感を覚えるたびに、美奈さんの姿勢を思い出す。そして、自分に言い聞かせる。「ゆっくり急げ」と。

※10…時事ドットコムニュース「適合手術要件、憲法判断へ 性別変更規定巡り大法廷に―最高裁」(2022年12月7日)
※11…上田健介「性同一性障害者特例法による性別変更の生殖腺除去要件の合憲性」、『法学教室』464号117頁、2019年。
※12…障害については以下の重要な知見をここで共有しておきたい。「……非障害者は「配慮が必要ない人」ではなく、「配慮されてきた人」であるということである。同様に、障害者は「配慮が必要な人」ではなく、「配慮の格差」に直面してきた人なのである。」(松井彰彦「障害者への「配慮」」、『朝日新聞』2016年4月22日、朝刊17面)

シリーズ:「わたしたちはここにいる:LGBTのコモン・センス」
第1回 相方と仲間:パートナーとコミュニティ
第2回 好きな女性と暮らすこと:ウーマン・リブ、ウーマン・ラブ
第3回 フツーを作る、フツーを超える:トランスジェンダーの生活と意見(前編)
第4回 フツーを作る、フツーを超える:トランスジェンダーの生活と意見(後編)
第5回 社会の障壁を超える旅:ゆっくり急ぐ
第6回(最終回) 【特別対談】すべての人が自分らしく生きられる社会に


いけだ・ひろの●1977年東京生まれ、山形大学人文社会科学部准教授。専攻は、法哲学、ジェンダー・セクシュアリティと法。著書に『ケアへの法哲学:フェミニズム法理論との対話』(ナカニシヤ出版、2022年)、編著に、綾部六郎・池田弘乃編『クィアと法:性規範の解放/開放のために』(日本評論社、2019年)、 谷口洋幸・綾部六郎・池田弘乃編『セクシュアリティと法: 身体・社会・言説との交錯』(法律文化社、2017年)、論考に「「正義などない? それでも権利のため闘い続けるんだ」――性的マイノリティとホーム」(志田陽子他編『映画で学ぶ憲法Ⅱ』、法律文化社、2021年)、「一人前の市民とは誰か?:クィアに考えるために」(『法学セミナー』62巻10号64-67頁、2017年)などがある。