第42回 正修止観章②
[2]「1. 結前生後し、人・法の得失を明かす」②
(2)失を明かす
この段落では、正しい修行ではなく、誤ったあり方を詳しく描写し、厳しい批判を加えている。まず、
其れ癡鈍なる者は、毒気(どっけ)深く入りて、本心を失うが故なり。既に其れ信ぜざれば、則ち手に入らず、聞法の鉤(かぎ)無きが故に、聴けども解すること能わず、智慧の眼に乏しければ、真偽を別かたず、身を挙げて痺癩(ひらい)し、歩みを動かすも前(すす)まず、覚らず知らず、大罪の聚(あつ)まれる人なり。何ぞ労して為めに説かん。設(も)し世を厭う者は、下劣の乗を翫(もてあそ)ばば、枝葉に攀附(はんぷ)し、狗(いぬ)の作務(さむ)に狎(な)れ、獼猴(みこう)を敬いて帝釈と為し、瓦礫(がりゃく)は是れ明珠(みょうじゅ)なりと宗(たっと)ぶ。此の黒闇暗 の人に、豈に道を論ず可けん。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、512-514頁)
とある。愚かな者は、毒気が深く体内に入って本心を失う(『法華経』如来寿量品に出る)から愚かなのである。その人が信じない以上、手に入れることができず、法を聞く鉤(悪を制圧するもの)がないから、聞いても理解することができず、智慧の眼が乏しいから、真偽を区別できず、全身がしびれているから、歩みを進めようとしても進めないとされる。このような人は何も知覚せず、大罪が積もった人であるので、苦労して説く必要はないとされる。 続きを読む