『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第96回 正修止観章 56

[3]「2. 広く解す」 54

(9)十乗観法を明かす㊸

 ⑨助道対治(対治助開)(3)

 次に忍辱波羅蜜の説明の段では、「恨無く、怨無きこと、富楼那(ふるな)の罵られて、手を免るることを喜び、乃至、刃を被れば疾く滅することを喜びしが如くす」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、92中18~19)と述べ、怨恨がないことは、富楼那が罵られても、手や石によって打たれることを免れることを喜び、ないし刃を受けても速やかに死ぬことを喜ぶようなものである。この富楼那に関する逸話は、『雑阿含経』巻第十三(大正2、89中22~下13)に出るものである。富楼那がしだいに厳しい迫害を受けたとしても、それにすべて忍耐する決意を示したものである。 続きを読む

書評『エモさと報道』――「新聞」をめぐる白熱の議論

ライター
本房 歩

「エモい記事」は必要なのか

 若者言葉である「エモい」は『広辞苑』にはまだ載っていないものの、2021年12月に改訂された『三省堂国語辞典』(第8版)には収録された。

【エモい】 (形)〔俗〕心がゆさぶられる感じだ。(略)〔由来〕ロックの一種エモ〔←エモーショナル ハードコア〕の曲調から、二〇一〇年代後半に一般に広まった。古語の「あはれなり」の意味に似ている。(『三省堂国語辞典』)

 さて、事の発端は2024年3月29日にさかのぼる。
 朝日新聞が運営するウェブサイト「Re:Ron」に、著者である西田亮介氏(社会学者/日本大学危機管理学部教授)の記事が掲載された。
 タイトルは〈その「エモい記事」いりますか――苦悩する新聞への苦言と変化への提言〉。これは、そのまま本書『エモさと報道』の第1章に収録されていて、ちなみに次のような書き出しで始まる。

 昨今、「ナラティブで、エモい記事」を新聞紙面でしばしば見かける。朝日新聞だけではない。他の全国紙も同様だ。具体的には、データや根拠を前面に出すことなく、なにかを明瞭に批判するでも、賛同するわけでもない。一意にかつ直ちに「読む意味」がはっきりしない。記者目線のエピソード重視、ナラティブ(物語)重視の記事のことである。夕刊や日曜版においては、一面などに掲載されることもある。(本書)

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芥川賞を読む 第59回 『スクラップ・アンド・ビルド』羽田圭介

文筆家
水上修一

高齢者介護の現実をどこかユーモラスに描く

羽田圭介(はだ・けいすけ)著/第153回芥川賞受賞作(2015年上半期)

不思議な可笑しさ

 羽田圭介が小説家デビューしたのは、高校(明治大学付属明治高校)在学中の2003年だった。小説「黒冷水」で文藝賞を受賞し、高校生作家誕生ということで大いに注目を集めた。その後、野間文芸新人賞の候補に2度、芥川賞候補にも3度上るなどして、その才能に注目が集まる中、4度目の候補で「スクラップ・アンド・ビルド」が芥川賞を受賞した。

 主な登場人物は3人。介護が必要な祖父と、その介護を担う就職活動中の孫の健斗と、健斗の母(祖父の娘)。ままならぬ肉体の衰えから「死んだほうがまし」が祖父の口癖だった。その祖父の願望を叶えるために孫の健斗は、痒いところに手が届くような過保護な介護によって、祖父自らが体を動かす機会を減らし、それによって筋力低下や神経系統の鈍化を促し、早くあの世に送り出そうとする。甲斐甲斐しく介護する健斗であったが、ある時、祖父の生に対する執着を知って、愕然とする。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第95回 正修止観章 55

[3]「2. 広く解す」 53

(9)十乗観法を明かす㊷

 ⑨助道対治(対治助開)(2)

 次に、たとい人は円教の捨覚分の観を理解しても、何事につけ物惜しみして執著し、堅く動かず、ただ理解するだけで行動がない場合、このような重大な慳蔽は何によって破ることができ、三解脱門は何によって開くことができるのかという問題を提起している。
 『摩訶止観』には、 続きを読む

連載「広布の未来図」を考える――第10回 今こそ「活字文化」の復興を

ライター
青山樹人

日常の活動で「平和」を考える

――前回(第9回)では、いよいよこれからが正念場という決意で「平和の文化」を構築していくことを論じていただきました。読者からも、日常の活動のなかで一人ひとりが「平和」について考え、学び、語り合っていくことの重要性に気づいたという反響がありました。

青山樹人 この夏は創価学会でも青年部を中心に各地で「平和」や「核廃絶」に関する催しが続きましたね。
 8月6日付『聖教新聞』でも開催が報じられた、「広島学講座」は、広島創価学会・青年部が取り組んできたもので、今回でなんと200回目を数えたということです。200回目の講師は、国連事務次長でもあるチリツィ・マルワラ国連大学学長でした。

 創価学会の平和運動が国内外で信頼され、評価されているのは、ひとつには、このように地道に息長く継続して取り組んでいることです。「広島学講座」にしても、1980年代から地道に継続している。
 ふたつめには、それらが一部の専門家ではなく、文字どおりの無名の庶民たちによって、世代を超えて営まれてきたことでしょう。
 このことは、たとえばマハトマ・ガンジーやマーティン・ルーサー・キング牧師の後継者たちも、驚きをもって見ています。

※参考記事:書評『牧師が語る仏法の師』――宗教間対話の記録

 日常の学会活動から〝地続き〟のかたちで、このような世界的にも稀有な平和運動が継続しているのです。民衆に支えられた、民衆による平和への取り組みです。
 だからこそ、おっしゃるように意識して、再びそれを日常の現場に還元して落とし込み、日頃の活動のなかで「平和」について考えたり学んだりすることが大切かもしれません。

 その際、これまで話し合ってきたように、会員であるなしに関係なく参加できるような方向性やかたちをめざしていけると、より理想的な気もします。 続きを読む