シリーズ:東日本大震災10年「防災・減災社会」構築への視点 第8回 人新世と東北復興のカタチ① 巨大防潮堤の〝罪〟

フリーライター
峠 淳次

はじめに~完新世から人新世へ~

 オゾンホールの研究でノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンが、地質学的見地から「人新世(ひとしんせい)」という概念を提起したのは、今世紀初頭のことだった。最終氷期後、今に至るまで1万1700年にわたって続いてきた温和で安定的な「完新世(かんしんせい)」が終わり、「人間活動が地球に及ぼす影響が自然の諸力に匹敵するほどにまで高まり、地球的条件そのものを変えてしまう」(篠原雅武「人新世の哲学」=ちくま新書『世界哲学史1』収録)という未知の地質時代への突入である。
 実際、私たちの惑星は、近代以降の人類の圧倒的な経済活動に伴う二酸化炭素の大量排出やプラスチック、コンクリートなどの人工物の過剰蓄積によって大きく改変され、温暖化、異常気象、海面上昇、さらには大規模自然災害の多発や生態系の破壊的変化などに喘(あえ)いでいる。人新世の学説が今や自然科学の枠を越えて人文・社会科学の分野にまで広がり、それぞれの立場から「自然との共存・共生」が訴えられているゆえんである。
 思えば、東日本大震災で私たちが学んだ重要な教訓の一つも、人間が自然を支配しようとすることの虚しさと矛盾と限界だった。「世界は(中略)人間的尺度を離れたところにあるものとして存在し」、人間世界もまた「人間的尺度を超えた巨大さのなかの一部分でしかない」(篠原雅武『「人間以後」の哲学~人新世を生きる』)との実感だった。
 はたして、この〝気づき〟は震災後の復旧・復興事業に生かされてきたのだろうか。人新世の概念を手掛かりに、あの日から11年目の冬を迎えた東北の風景のなかを歩き、「復興のカタチ」を検証する。

雄勝発~分断される陸と海~

高さ10メートル弱の巨大防潮堤が3キロメートル近くにわたって延びる石巻市雄勝町の巨大防潮堤

 仙台市内から車で1時間半、北上川沿いに走る国道から山沿いをうねる県道へと入り、つづら折りの坂道をゆっくりと下っていくと、小さな漁村が見えてくる。硯(すずり)の生産量日本一を誇る「硯の町」として知られ、「日本一美しい漁村」とも言われてきた宮城県石巻市雄勝町である。入江が複雑に入り組んだ三陸のリアス式海岸特有の〝自然の造形美〟にご対面できるまでもうひと息……。俄然、アクセルを踏む足に力がこもる。
 と突然、「これ以上、前へ進むな」とばかりに、無機質なコンクリートの壁が目に飛び込んでくる。高さ9・7メートルにもなる巨大防潮堤だ。入江を取り囲むように右に左に折れ曲がりながら、約3キロメートルにもわたって陸と海を分断している。さながら戦国時代の城壁とでもいうべきか、その威圧感に圧倒され、茫然と立ち尽くすばかりだ。すぐ裏に広がっているはずの海は全く見えず、波の音も漁師たちの声も聞こえてこない。
 階段を上って堤の上に立ってみた。真下に停めた車はおもちゃの車のように小さく、時折、道行く人の姿もかすんで見える。そびえ立つ壁が、「日本一美しい漁村」の風景を真二つに寸断してしまったことを改めて深く強く実感しないわけにはいかない。
 海側に降り、波止場で船の手入れをしている初老の漁師に声をかけると、悔しさと怒りを滲ませながら語ってくれた。

どう見たって、やり過ぎだっちゃ。陸(おか)から海が見えないんだもんな。俺ら漁師は、海を見て、空を見て、風向きを読み取って、それで漁に出るわけだけど、そこが閉ざされたんだからな。海を生業(なりわい)に生きる者にとって自然がどれだけ大切か。そこが分かっちゃいないのさ、行政のお偉いさん方には

 10年前のあの日、この地を襲った波高10メートル級の津波は、高さ4メートル程度だった当時の防潮堤を易々と越え、約600世帯あった集落をのみ込んだ。犠牲者240人以上。硯の原材である玄昌石を屋根や壁に使った「自慢の黒い町並み」(町の観光施設職員)は一瞬のうちに消え去った。
 震災後、市は、浸水し地盤沈下した海沿いの区域を災害危険区域に指定して住むことを禁じ、高台への集団移転を決めた。これを受けて県は、「高台に移っても、海沿いに走る県道を守る必要がある」として、高さ9・7メートルの巨大防潮堤を建てる計画を発表。反対する住民の声は少なくなかったが、14年夏、県は「地元の合意は取れた」として計画案を正式決定。見切り発車の形で、16年から工事が始まった。
 だが、工事が進み、海が見えなくなるにつれ、人々は故郷の喪失感を覚えずにはおられなかった。地区外に避難している住民の多くはそのまま避難先で暮らす道を選択し、漁師たちも「生業が成り立たない」と船を降りるなど、「苦渋の故郷離れ」(市役所支所職員)が加速していった。かくして、震災前には4000人を超えていた町の人口は1000人ほどにまで激減し、防潮堤の背後は人っ子一人住まない草地と化した。唯一、海辺の土地を一部かさ上げして建てられた「雄勝硯伝統産業会館」と「雄勝観光物産交流館」を訪ねても、両脇を山に挟まれた雄勝湾の美しい景色を一望できても人に出会うことがほとんどないのは、コロナ禍のせいだけではないだろう。

この高さの防潮堤ですからね。漁師さんならずとも、海が見えないのは却って怖いし、淋しいですよ。よそから来る人にしたって、雄勝の住人にしたってね。

 交流館のおみやげ屋で働く女性はそう言って、「今となっては、後の祭りですけどね」と唇をかんだ。

「環境」の視点ないままに

底辺部が広い台形型が主流となった震災後の防潮堤。海の生態系破壊を招いているとの指摘がある(写真は宮城県気仙沼市内 20年8月撮影)

 復興庁などによると、震災後に整備された東北被災3県の防潮堤の多くは、長さも高さも震災前に比べて巨大化した。総延長は震災前の約300キロから400キロ近くに延び、そのうち高さ5メートル以上が震災前の170キロ超から290キロ弱に膨らんだ。宮城県気仙沼市小泉海岸に建てられた高さ15メートルの防潮堤や、震災前から「万里の長城」と呼ばれてきた高さ10メートルの二重構造型(X型)防潮堤をさらに4・7メートル高くした岩手県宮古市田老地区の防潮堤など、10メートル超えの「壁」も震災前の10キロ程度から50キロ以上に増える見込みだ。
 もちろん、地元住民の意向を受けて、当初の整備計画より低く見直された事例もなくはない。県内随一の海水浴場として人気を集めた岩手県釜石市の根浜海岸では、「海の見える高さに」との住民の要望を受けて、当初計画の14・5メートルから震災前の5・6メートルに変更され、全長500メートルにもなる砂浜も復活した。最大波高14・8メートルの津波で住宅の8割が全壊した宮城県女川町も、コバルトブルーの女川湾が丸ごと見える商業エリア「シーパルピア女川」を町の中心部につくるなど、無機質な防潮堤の建設を可能な限り排し、「海と陸との一体感ある復興まちづくり」(須田善明町長)に成功している。
 だが、総じて見れば、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」さながら、必要以上に高すぎる防潮堤が大規模な土木工事によって築かれてきたことは否めない。
 背景にあったのは、当時の民主党政権が決めた「期限付きの全額国費負担」方針だ。震災後5年間の工事は全額国費で賄うが、その後は地元に一部負担を求めるという枠組みである。「このことが結果的に事業の肥大化を招き、住民との調整が不十分なまま、拙速で過剰なインフラ整備を許すことになってしまった」。専門家や関係者は一様にこう指摘する。

防潮堤はなく、海が丸ごと見える女川町の商店街「シーパルピア女川」(21年11月)

 もう一つ、なぜか語られることは少ないが、重要な視点が欠落していたことも見逃せない。地元産業への影響も含めた景観や生態系など自然環境への配慮がほとんど考慮されなかったことだ。防潮堤はもっぱら防災と減災の視点からだけ計画され、気が付けば高さ10メートル級の防潮堤の建設が始まり、地域の生態系を保持する砂浜や森林が失われていったのだった。クルッツェンら世界有数の地質学者たちが訴える「『人新世』到来」の根拠と現実がここにもある、そう思わないわけにはいかない。
 ちなみに言えば、日本ではそもそも防潮堤の建設に際し、環境保全に配慮する義務は課されない。大規模な開発事業に比べて規模が小さく、そのために周囲の環境に与える影響を予測・評価する「環境アセスメント」の対象事業になっていないのだ。実際、震災前の防潮堤は、高さ10メートル級のものでも底辺が狭く、開発面積自体は大きくはなかった。しかし、震災後の防潮堤は底辺が広い台形型が主流となった。先に紹介した気仙沼市小泉海岸の高さ15メートルの防潮堤は、底辺幅が実に90メートルにも及ぶ。これほど大規模な事業に変わっても、法的には環境への影響を考慮する必要はなかったというわけである。政治と行政の怠慢、あるいは無知、不勉強というほかない。

「復興災害」!?

 そして今、震災から10年余。環境保全の視点が希薄なまま建てられた巨大防潮堤が三陸の地に相次ぎ誕生するなか、そのツケがはっきりと回ってきているように映る。
 とりわけ顕著なのが、ここ数年来続く極度の漁業不振だ。漁港や漁船の復旧で水揚げ体制はほぼ平時に戻ったというのに、3県の主要魚市場の水揚げ量は震災前の5~7割で頭打ち状態が続く。毎春、雄勝湾や仙台湾沖で操業され、数千トンの水揚げがあったコウナゴ漁は数年前から急カーブを描いて減り続け、19年は25トン、20年は初めてゼロを記録し、今年も2年連続で水揚げがなかった。サンマやサケ、イカなど主力魚種の不振も続き、特に、ふ化放流によって支えられている三陸沿岸特産のサケの漁獲量は、今や震災前の10分の1以下にまで激減。親魚となって回帰してくる前の段階で、放流後の稚魚の多くが沿岸で死滅しているとみられている。
「要因として考えられるのは地球温暖化による海面水温の上昇」というのが農林水産省などの見方だ。訪ねた気仙沼水産試験場でも「長期トレンドで観測しないと確かな原因は分からないが、海面水温の上昇が大きいのではないか」との答えが返ってきた。
 だが、加えてもう一つ、震災後も常に海とともにあり続けてきた漁師や一部研究者らを中心に、「巨大防潮堤による自然界の循環の遮断も一大要因」と指摘する声は少なくない。宮城県南三陸町で漁師をしながら、一般社団法人「復興みなさん会」代表として3・11の語り部活動を続けている後藤一磨さん(74)もその一人だ。コンクリートの巨大防潮堤や人工海岸の建設で海の豊かさと故郷の原風景が奪われてゆく姿を「復興災害」と切り捨てながら、こう話す。

震災発生から数カ月後、有人潜水調査船「しんかい」が三陸の海底を調べたらヘドロが消えていた。当時の船長から直接聞いた話です。沿岸でも、2年かけないと収穫できない牡蠣がたった半年でふっくらと成長しました。多くの人命を奪った津波でしたが、その裏では三陸の海を洗い、若返らせ、再生させていたのですね。しかし、巨大防潮堤が現れるにつれ、せっかく蘇った海の老化がまた始まった。森と海を繋ぐ地下の水脈が遮断され、豊かな栄養分を含んだ山からの水が十分に届かなくなったのです。それが海水温の上昇と相まって漁業不振を招いている。そう考えています。復興という名の、人間の手による自然破壊以外の何ものでもありません

           

「人新世」という地球規模の地殻変動が指摘されるなか、三陸の被災地で見え隠れする復興の歪み。次回は東北の内陸部を訪ね、山中で人知れず進む巨大再エネ事業に隠された自然破壊の現状と、それに伴う被災地・三陸の海の生態系への影響について考える。

シリーズ「東日本大震災10年~『防災・減災社会』構築への視点」:
第1回 「3・11伝承ロード」構想(上)
第2回 「3・11伝承ロード」構想(下)
第3回 つながる語り部たち(上)~東北から阪神、熊本、全国へ~
第4回 つながる語り部たち(下)~コロナ禍を超えて~
第5回 「日本版ディザスター・シティ」構想~一級の危機管理要員育成へ(上)
第6回 「日本版ディザスター・シティ」構想~一級の危機管理要員育成へ(中)
第7回 「日本版ディザスター・シティ」構想~一級の危機管理要員育成へ~(下)
第8回 人新世と東北復興のカタチ① 巨大防潮堤の〝罪〟
 
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とうげ じゅんじ●1954年大阪府生まれ。創価大学文学部卒。1979年公明新聞入社。 東日本大震災取材班キャップ、 編集委員などを経て2019年からフリーに。編著書に『命みつめて~あの日から今、そして未来へ』(鳳書院)など。