シリーズ:東日本大震災10年~「防災・減災社会」構築への視点 第4回 つながる語り部たち(下)~コロナ禍を超えて~

フリーライター
峠 淳次

近代人にとってこの災害が耐えがたいのは、それに対抗して『する』ことがないということではないだろうか。

 新型コロナウイルス禍に関して、劇作家の山崎正和氏が昨年(2020年)夏の逝去の直前、雑誌『中央公論』7月号に寄せた論考の中の一節である。事実、悪疫の世界的流行(パンデミック)という異質の災害下、私たちは「外出しないこと」「集まらないこと」を心掛けるばかりで、「行動『する』こと」「何かを『する』こと」を罪意識にも似た思いで控えている。こうした事態に、「現場で活動『する』」「生の声で伝承『する』」「人々と直(じか)に接触『する』」ことを真髄とする東日本大震災の被災地の語り部たちは、どう立ち向かってきたのだろうか。苦闘する語り部たちの姿を福島の地に追った。
(冒頭アイキャッチ画像:口演する青木代表=「富岡町3・11を語る会」提供)

全町避難の町で~富岡町3・11を語る会~

 大震災に伴う東京電力福島第1原発事故で全町避難を余儀なくされた福島県富岡町。2017年に町の大部分で避難指示が解除され、2020年春には帰還困難区域内にあったJR常磐線の夜ノ森駅とその周辺地域の規制も解かれた。放射能汚染の風評への不安などから既に町外に転居した人は少なくないが、それでもゆっくりと確実に住民帰還は進んでいる。
 原発事故で休校状態が続く地元・富岡高校の元校長、青木淑子さんを代表に、2015年4月に結成されたNPO法人「富岡町3・11を語る会」は、そんな故郷の風景と住民たちのありのままの姿を語り続けている町民有志の団体だ。

あの日、福島の地で何があったのか。住民の暮らしはどう変わったのか。私たちはこれからどうすべきなのか、あるべき復興とは……。語ればつらいことも、語らなければ忘れられてしまう。

 青木代表はこう強調し、「語り継いでいくことは私たちの義務」とまで言い切る。
 メンバーは約20人。自らを「語り人(べ)」と称し、また、その活動を「口演」と名付け、地元でのガイドはもちろん、県内外へ、さらにはフランスやイギリスなど海外にまで出掛け、毎年200回以上の口演を行ってきた。これまでの聴講者は延べ4万人を超える。

伝承だけでなく、町と避難先をつなぎ、富岡を元気にする活動もしたい。(青木代表)

2020年9月に開かれた演劇キャンプ。最終日には発表会が一般公開された=富岡町文化交流センター「学びの森」=「富岡町3・11を語る会」提供

と、コミュニティーの再生にも力を尽くす。特に避難指示が一部解除となった17年からは、住民同士の親睦を目的とした「世代間交流会」や「演劇キャンプ」などを実施。今なお多くの富岡町民が避難生活を続けている同県郡山市内には、町民と郡山市民との交流拠点として「人の駅 桜風舎」も開設し、茶話会や手芸教室など多彩な催しを開いている。
 2019年には、町内外に暮らす富岡町民や同町ゆかりの演劇人らに呼び掛け、町民劇「ホーム~おばあちゃんが帰る日~」を町文化交流センター「学びの森」の大ホールで上演した。避難指示が解除され、故郷に戻ることを決断したおばあちゃんと、それに反対する家族の複雑な思いを描いたこの劇は、その後、東京でも上演され、DVDにも収録。〝もう一つの語り〟として福島と富岡の「今」を全国に伝えている。
 2020年も1月に8回、2月に9回の口演を行うなど、順調なスタートを切った。

<聞いてくれる皆さまがいるから、わたしたちは語り続ける。忘れないために、繰り返さないために、〝終わらない声〟を伝えていく!>

 震災から丸9年の節目の日、同年3月11日に発行した会の広報紙「語り人通信」第25号には、さらなる活動展開を誓うメンバーの決意と自信が溢れていた。

原点からの再出発

 だが、事態は一変する。思いも寄らぬ新型コロナウイルス感染の急拡大だ。3月以降に予定されていた口演は軒並みキャンセルや延期となり、世代間交流会などの催しもことごとく中止を余儀なくされた。いつまで耐えればいいのか、このまま活動は終わってしまうのか……。メンバーの間に不安と焦りが広がっていった。

何より耐え難かったのは、活動の大前提が崩れたことでした。「ライブこそ生命線」と信じ、生身の人間の声を、顔を見ながら直(じか)に伝えることを何より大切にしてきたのが、「人と接触するな」「顔を合わせるな」となってしまったのですから。(青木代表)

 しかし、このことは同時に、伝承する意味と目的を改めて問い直し、会結成時の原点に立ち返る契機ともなったようだ。4月、5月、6月……、ほとんどの活動がストップする中、青木代表らは考え続けた。何のために会をつくったのか、なぜ語りをするのか、顔を見ながら話すことができなかったら伝えることを諦めるのか、諦めていいのかと。
 もとより東北各地の語り部たちが発するひと言ひと言は、学者や研究者が専門用語を駆使して話す言葉と異なる。そこには一貫して「現場」があり、「体験」がある。生活者の目線に貫かれた「温もり」と「優しさ」がある。あらゆる災害から人々を守りたいとの「祈り」と「願い」が滲んでいる。彼ら彼女たちにとって、「過去」を語ることはそのまま、「未来」を語ることであり、50年、100年先までの人々の命を守る道へと通じている。
 この尊い使命を思う時、語りを諦めることなど、できようはずはなかった。7月11日発行の「語り人通信」第27号が伝えている。

<震災と原発事故から10年目。一番大切にしてきた『一人にならない』ことが『なるべく一人でいて』と真逆の方向に変わりました。そんな中で私たち語る会の語り人は、途絶えることのない情報発信はないか、考え続けました。離れていても繋がっているために>

新しい伝承のカタチ

 こうして、コロナ禍のなかでもできる「新しい伝承のカタチ」が一つ、また一つと考案され、実行へと移されていった。
 まずは、自粛下にあってもメンバー同士の〝心の距離〟は「密」のままでいられるようにと、ハガキによる近況報告を始めた。オンラインにもリモートにも縁のない高齢の語り人でも、文字は書ける。だったらハガキで、というわけである。メンバーは毎月5枚、会の事務所の住所が印字されたハガキに手書きの絵や文字で近況を書いて投函。事務所はこれをひとまとめにしてパソコン上にアップして全員に送信する。ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)が叫ばれれば叫ばれるほど、メンバー間の心の距離は、より近しくなっていった。

日曜日、何もない富岡町で珈琲を飲み、くつろぎませんか?

万全のコロナ対策のもと、富岡町内にオープンした「日曜カフェ『cha茶cha』」。交流の場として親しまれている=「富岡町3・11を語る会」提供

 こんなキャッチ・フレーズの下、「日曜カフェ『cha茶cha』」もオープンした。避難指示が解除されたとはいえ、人はまばらな富岡の町。「ならば、せめて日曜日だけでも住民が集える場を」と、毎月日曜日に限って開く喫茶店だ。必要以上にテラス席を広くとるなどコロナ対策は万全で、旧知の住民同士が偶然にも震災後初めて再会するなど、感動的な出会いの場ともなっている。
 語り人の話や町の風景を収めた動画の作成・発信や、町内で除染や建物解体の作業に従事している〝移動しないで済む人たち〟を対象にした「企業向け口演」など、メインの口演活動もカタチを変えて動き出した。
 9月には、オーストラリアのパースで暮らす日本人の小中学生たちを対象に、初めて「オンライン口演」も行った。期待と不安が入り混じる挑戦だったが、後日、便箋いっぱいに感想を綴った子どもたちの手紙が海を渡って届いた。

離れていても〝思い〟は伝わる

 以降、オンライン口演は回を重ね、フクシマの記憶と教訓を各地に伝えていった。
 震災10年の節目を迎える今年3月に向けて、2つの大きなプロジェクトにも取り組んでいる。1つは「ふるさとシネマプロジェクト」。10年前、全町避難の指示に従って故郷を後にした富岡町民1万6000人は、原発事故から5日後の3月16日、県内最大規模の避難所となった郡山市の複合コンベンション施設「ビッグパレットふくしま」にたどり着き、ここで5カ月間にわたる避難生活を送ることになる。この間、人々は何を思い、どう過ごしたのか。写真集『生きている生きてゆく~ビッグパレット避難所記~』(同写真集刊行委員会編)には、その記録が詳細に収められている。シネマプロジェクトは、この一冊に写っている町民に改めてスポットを当て、被災10年の今、避難者の視点から「フクシマ」を問い直そうという試みだ。会の語り人たちが取材しながら映像に仕上げ、ビッグパレットに入った日から丸10年目の3月16日に上映する。
 もう一つは、同写真集に収録されている避難者たちの声を朗読劇として伝える「311メモリアル公演」。震災後に新設された県立ふたば未来学園高校の「みらいシアター」を会場に、やはり3月16日に上演する(コロナの感染状況によっては無観客で行い、動画配信とDVDで届ける予定)。

「コロナ後」見据えて

雄大な自然の中を走る三陸鉄道リアス線の「震災学習列車」。社員が語り部となって震災の記憶と教訓を話してくれる=「(株)三陸鉄道」提供

 それにしてもコロナ禍はいつまで続くのだろうか。多くの専門家が指摘する通り、長期化は避けられないのかも知れない。ただし、パンデミックはいずれ必ず終わることも事実だ。中世のペストしかり、近代のスペイン風邪しかり、歴史がそれを証明している。冒頭に紹介した『中央公論』で山崎正和氏が「新型コロナ肺炎の去った後に、どんな将来世界が残るのか、いな、残さねばならないかは今から考えておいてよい課題」と説くゆえんである。
 思い返されるのは昨年夏に東北太平洋岸の被災地を巡った際、語り部たちが口々に「コロナ後」の活動を熱く語っていたことだ。岩手県三陸沿岸を走る三陸鉄道の中村一郎社長は、好評の「震災学習列車」にキャンセルが相次いでいることを嘆きながらも、東京大学大気海洋研究所沿岸海洋研究センター(岩手県大槌町)などと連携して三陸の自然と震災を同時に学べる列車の走行など、コロナ後をにらんだ新企画の構想を聞かせてくれた。宮古市田老地区で地元の観光文化交流協会が運営する「学ぶ防災」のガイドを務める元田久美子さんは、震災遺構「たろう観光ホテル」にエレベーターが設置されたことに触れ、

これで災害弱者とされるお年寄りや車椅子の方々も、最上階から町の全貌を見渡せる。コロナ後の語りが待ち遠しい

と目を輝かせていた。
 そして、富岡町の語る会事務所に訪ねた青木代表。

コロナは放射線同様、〝目に見えないもの〟の恐怖を人々に思い知らせている。フクシマを〝自分ごと〟の問題として考える人が増える契機となるかもしれない。もう一つ、これも皮肉な話だけれど、コロナ禍の中での制約された活動は、人とつながること、生の声で伝えることの大切さを改めて教えてくれた。コロナ後、今の試練はきっと生きる。

 いずれ訪れる悪疫の終焉。その時、震災の風化阻止と防災減災社会の構築をめざす語り部たちの草の根の活動は、一気に加速する。

シリーズ「東日本大震災10年~『防災・減災社会』構築への視点」:
第1回 「3・11伝承ロード」構想(上)
第2回 「3・11伝承ロード」構想(下)
第3回 つながる語り部たち(上)~東北から阪神、熊本、全国へ~
第4回 つながる語り部たち(下)~コロナ禍を超えて~
「日本版ディザスター・シティ」構想~一級の危機管理要員育成へ(上)
 
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「忘れない」の誓い、今こそ――東日本大震災から9年 被災地の今を歩く(上)
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とうげ じゅんじ●1954年大阪府生まれ。創価大学文学部卒。1979年公明新聞入社。 東日本大震災取材班キャップ、 編集委員などを経て2019年からフリーに。編著書に『命みつめて~あの日から今、そして未来へ』(鳳書院)など。