「忘れない」の誓い、今こそ――東日本大震災から9年 被災地の今を歩く(上)

フリーライター
峠 淳次

 かつて仮設のプレハブ住宅が立ち並んでいた宮城県石巻市の「追波川(おっぱがわ)河川運動公園」。ようやく仮設暮らしに別れを告げ、今は隣接する災害公営住宅(復興住宅)に暮らすお年寄りが寂しげにつぶやく。「何だか忘れられ、置き去りにされていくようでね。それが、一番つらく悲しい」――。東日本大震災から9年が過ぎた東北三陸沿岸の街々。道路や堤防などハード面の復興が進み、新しい街の形が姿を現しつつある中、「災後」を生きる人々は何を思い、どう暮らしているのだろうか。光と影が交錯する被災地の今を歩いた。

急減する〝復興の担い手〟~陸前高田市発~

「奇跡の一本松」に見守られながら急ピッチで整備が進む岩手県陸前高田市の沿岸部

 震災復興のリーディングプロジェクトとして、震災直後から国・県・地元市町村が一体となって整備を進めてきた「三陸沿岸道路」。すでに7割以上が完成し、来年3月には東北太平洋岸の街々を結ぶ延長359キロメートルの自動車専用道路として全線開通する。福島-東京間を走る常磐自動車道にも直結し、三陸と首都圏との「距離」と「時間」を一気に短縮させる大動脈としても期待されている。
 この専用道を起点の仙台港インターチェンジ(IC)から走ること2時間弱、車は岩手県陸前高田市の沿岸地域に到着する。死者・行方不明者1808人(震災関連死含む)、全壊家屋4000棟弱。岩手、宮城、福島の被災3県42市町村の中でも最大級の津波被害に見舞われた地だ。
 新型コロナ・ウイルス禍で自粛ムードが本格化する前の訪問だったせいか、一帯には大型トラックがひっきりなしに行き交い、ブルドーザーがけたたましい騒音を響かせている。東京ドーム27個分に相当する広大な浸水区域を高さ10メートル超の土を盛ってかさ上げし、新しい市街地を造成する空前の大工事も、いよいよ仕上げの段階にあることを実感させる。
 実際、昨年(2019年)9月には、復興のシンボルとしての「津波伝承館」や「道の駅」が完成。国と県が連携してつくる「復興祈念公園」も、最後まで大津波に耐え抜いた「奇跡の一本松」に見守られながら順調に整備が進んでいるようだ。図書館や会議室などを備える複合の大型商業施設として17年春にオープンした「アバッセたかた」にも、ショッピングを楽しむ親子連れや中高校生たちの笑顔が弾けている。
 だが、車を造成地の先へと走らせると風景は一変。空き地がそこかしこに散在し、人影も工事関係者を除いてほとんど見ることがない。県外からの観光客がお目当てなのか、下落する一方の地価の安さを大書して移住を呼び掛ける看板が風に揺れるばかりだ。

(これはいったい……?!)

 建設の槌音を響かせていた先ほどの風景との〝落差〟に愕然とする。あまりに対照的な、この2つの風景をどう見ればいいのか。土地の造成や道路整備などハードの復興が進捗する裏で、「人」というソフトの復興が置き去りにされ、縮小していっているのではないか。そんな疑問が沸々と湧いてくる。仮設店舗を転々とした末、18年の「まちびらき」に合わせて自宅を兼ねた新店舗を「アバッセたかた」の裏地に建てたという飲食店の主人が説明してくれる。

9年という歳月が長すぎたということさ。みんな待ち切れず、内陸部の市町村や県外へと引っ越していったからね。この店だって、もう少しお客さんが来ると見込んでいたんだがねぇ

 事実、震災前に2万3200人余を数えた陸前高田市の人口は現在、1万8456人にまで減少(19年12月時点)。津波の犠牲となった人々も含め、この9年間で5分の1の市民が消えたことになる。
 急激な人口減少は、ひとり陸前高田市だけに限った問題ではない。東京電力福島第1原発事故に伴う避難指示の影響が今も色濃く残る福島県の原発周辺12市町村は言うに及ばず、岩手、宮城両県いずれの被災地にも共通して見られる現象だ。しかも、流出の〝主役〟は将来の復興の担い手たる若年層や子どもたち。各県のデータをもとに、14歳以下の子どもの減少率(震災前と19年1月時点との比較)を市町村ごとに見ると、宮城県女川町で53%、同南三陸町で45%などと続き、ここ陸前高田市も38%にも上る。列島を覆う少子高齢化の荒波が、より先鋭化した形で進行する地、それが被災地というわけである。

皮肉なことに震災直後の方が地域にパワーがあった。あれだけ悲惨な目にあいながらも、若者たちが率先して復旧に取り組み、それがお年寄りたちの励みになっていた

 陸前高田市の担当者はそう言って、人口減とりわけ若年層流出が現下の最重要課題と強調した。

癒えぬ喪失感の末に~石巻市発~

大量のがれきが散乱する震災直後の石巻市立病院前の風景(2011年3月25日)

 加速する人口減少と高齢化は、コミュニティーの衰弱やなりわいの回復の遅れ、雇用の場の縮小など、さまざまな問題を地域社会に招いている。とりわけ気掛かりなのが、復興住宅に暮らす一人暮らしのお年寄りたちだ。
 岩手、宮城、福島各県の調査によると、3県の復興住宅で誰にも気付かれずに亡くなっていく「孤独死」が、昨年末現在で計251人にも上り、このうち8割を65歳以上の高齢者が占めている。しかも、4分の3強がここ3年間で発生。あれほどの大津波をせっかく潜り抜けたのになぜ……。怒りにも似た悔しさ、やるせなさがこみ上げてくる。
 孤独のうちに逝ってしまったお年寄りたちの無念に思いを馳せながら、かつて訪ねた石巻市内の仮設住宅跡地「追波川河川運動公園」に車を走らせた。三陸沿岸道路の河北ICを降りて5分、10棟ほどはあったと記憶する仮設住宅はすっかり取り壊され、代わって真新しい復興住宅群が隣接する土地に広がっている。
 一人でベンチに腰を下ろしているお年寄りが気さくに声をかけてくれた。小森ハナさん(仮名)、78歳。問わず語りに聞かせてくれる「あの日」からの日々は壮絶だ。生まれ育った同市雄勝町の自宅は跡形もなく津波に流され、避難所を転々とする中で夫は病死。今は目の前の復興住宅で一人暮らしだという。不躾を覚悟の上で、寂しくないですかと聞くと、ため息交じりに「そりゃあねぇ」とひと言。一呼吸おいて、

避難所では昔からの知り合いと一緒だったし、仮設に移ってからもボランティアやマスコミの人たちが次から次に訪ねてきてくれたものさ。それが今はねぇ。人間、モノがなくても何とかなるけど、人との付き合いがなくなると滅入るものさ

と続けた。
 小森さんがそうだとは断じて思わないが、3県合わせて約3万戸にも上る復興住宅の入居者の中に、「孤独死予備軍」とでも言うべき孤立者が少なからずいることは容易に想像できる。早い話、発生から25年たった阪神・淡路大震災の被災地では、昨年だけでも75人が孤独死しており、今なお深刻な課題となっている。

家族も家も友人もなくしてしまったという喪失感は、年がたつほど重く心にのしかかり、それが引きこもりの大きな要因となっている

と専門家は指摘する。

津波後の火災で校舎が全焼した石巻市の門脇小学校とその周辺の震災直後の風景(2011年3月25日)

 無論、石巻市はじめ各市町村は対策強化に余念がない。震災前の人間関係が維持されるよう、可能な限り地域単位の集団移転を行い、職員・ボランティアによる見回り態勢の強化や自治会、コミュニティーづくりなどの支援にも懸命だ。
 だが、9年の歳月は、良くも悪くも被災者一人一人の境遇を大きく変える期間でもあった。「震災直後は皆等しく、今日明日のことでいっぱいだった」(小森さん)境遇は、時の流れとともに、高台に新居を建てることができた人、兄弟や子どもを頼って県外へ引っ越していった人、最後まで行き場を見つけられないまま、仮設暮らしを余儀なくされ続けた人……と分断され、著しい格差を生んできた。
 その意味で、「復興格差」は地域間よりは個人間で、ハード面よりはソフト面で拡大してきたのであって、孤独のうちに死んでいった251人とその予備軍は、その過程で置き去りにされ、忘れられていった人々と言える。震災9年の今、「心の復興」の加速が叫ばれるゆえんがここにもある。
 とはいえ、被災地外に暮らす私たちに何ができるのだろうか。1時間近くもおしゃべりし合った小森さんが、別れ際、手を合わせて祈るように言った言葉が思い返される。「また来てね」「被災地を忘れないでね」――。風化に抗い、「忘れない心」「寄り添う思い」を今一度、自身の命に吹き込むことから始めたい。(下につづく)

「東日本大震災から9年 被災地の今を歩く」:
「忘れない」の誓い、今こそ――東日本大震災から9年 被災地の今を歩く(上)
「忘れない」の誓い、今こそ――東日本大震災から9年 被災地の今を歩く(下)

関連記事(「震災からの歩み」):
(1)人間と震災遺構――津波と共に生きる(東北大学大学院工学研究科教授 五十嵐太郎)
(2)東北を日本の先進地に――被災地の声を聞き、見えてきた未来へのヒント(東北学院大学准教授 金菱清)
(3)マイナスをゼロに、ゼロをプラスに――未来につながる復興を目指して(東京大学大学院教授 早野龍五)


とうげ じゅんじ●1954年大阪府生まれ。創価大学文学部卒。1979年公明新聞入社。 東日本大震災取材班キャップ、 編集委員などを経て2019年からフリーに。編著書に『命みつめて~あの日から今、そして未来へ』(鳳書院)など。