シリーズ 震災からの歩み<1> 人間と震災遺構――津波と共に生きる

東北大学大学院工学研究科教授
五十嵐太郎

 東日本大震災から2年あまり。がれき撤去は進み、被災した建物の多くは姿を消しつつある。そのなかで、「震災遺構」として被災建物を保存すべきだとの議論がある。人間にとって被災建物はどんな意味をもつのか。

津波が破壊した鉄筋コンクリートの建物

 東日本大震災が起きた直後から今日に至るまで、私は継続的に被災地を歩き続けています。岩手県陸前高田市は引き波が強かったこともあり、町の痕跡がほとんど見当たらないほどひどい壊れ方をしていました。まるで爆心地のようです。
 宮城県女川町では、鉄筋コンクリートや鉄骨造のビルが杭ごと引っこ抜かれて転がっている様子に衝撃を受けました。津波の専門家である首藤伸夫先生(東北大学名誉教授)によると、鉄筋・鉄骨の建物がこのように破壊された例は極めて珍しいそうです。
 女川町は原子力発電所を誘致していることもあり、「マリンパル女川」をはじめとして立派な建物がたくさんありました。原発誘致と引き換えに得た予算を使い、町のスケールと比べると、大きな建物をたくさん建てたわけです。その立派な建物がことごとく破壊され、女川町はまるで「壊れた廃墟」のようになってしまいました。
 津波による被災の規模は、地域によって異なります。宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区では、沿岸部の家屋が津波によって大量に押し流されました。閖上地区は平地が広がっているため、特定の1ヵ所だけに津波が集中しにくかったとも言えます。
 女川町は水の力がピンポイントで1ヵ所に集中しやすい地形であるため、4~5階建ての大きなビルでさえ45度も傾いてしまいました。どうやら女川町では地震によって液状化現象が起き、地中に埋めこんだ杭が引き抜かれやすい状況だったようです。
 液状化で地盤が緩くなったところを津波が襲ったため、ビルが水中を漂い、違う場所にまで流され、そこで倒れました。鉄筋や鉄骨の建物がゴロゴロ転がっている情景は、女川町以外の場所では見たことがありません。建築の専門家として、あの現場を初めて見たときには本当に驚きました。

倒壊した宮城県女川町のビル(2011年4月7日撮影)

倒壊した宮城県女川町のビル(2011年4月7日撮影)

 現在も女川町では、鉄骨造や鉄筋コンクリートなど3つの建物が根元から横倒しになった状態で残っています。世界的に非常に珍しい破壊が起きたこれらの建物を「震災遺構」として保存すべきではないのか。遺族感情などに配慮して「撤去すべきだ」という意見の人もいるなか、今も議論が続いています。

被災した庁舎を解体するべきなのか

 宮城県南三陸町や岩手県大槌町では、津波によって役場の庁舎が破壊されて大勢の職員が亡くなりました。廃墟となった庁舎を目にするたびに、震災の恐ろしい記憶がよみがえってつらいと訴える住民もいます。
 庁舎を震災遺構として保存するとなると、億単位の予算が必要です。そんな予算があるのならば、震災復興に回すべきではないかという意見もあります。住民が議論を重ね、大槌町では津波の被害を受けた庁舎を一部保存することを決めました。
 国から解体費用をもらって、被災庁舎を今すぐ解体するべきなのか。それとも、今すぐ保存作業を開始するべきなのか。保存派も解体派も「年度内に予算を使い切る」という前提に立っているから、このような二者択一にとらわれてしまうのです。
 木造家屋と違って、鉄筋コンクリートや鉄骨で造られた建物は腐ってしまうわけではありません。庁舎をすぐにどうこうしようと考えず20~30年放っておいてもいいのではないでしょうか。これだと1円もお金をかける必要などないのですから。
 震災の記憶が思い起こされてつらい人がいるのであれば、周りを囲って外から見えないようにしておけばいいのです。20~30年たってから「この建物を残すべきか。それとも解体するべきか」とあらためて議論すればいいのではないでしょうか。
 震災遺構をどうするか、たった2~3年のうちにバタバタ決めるべきではありません。放置するにあたって予算は必要ないのですから、時間のスケールを長くとらえてじっくり考えたほうがいいと思うのです。

原爆ドーム永久保存までの21年間

 広島平和記念公園の原爆ドームは、ユネスコが認定する世界遺産として世界中に知られています。原爆ドームの永久保存が決まったのは、戦後20年以上が過ぎた1966年のことでした。
 戦後の日本人は生きることに必死だったため、ドームを保存するどころではなかったのでしょう。敗戦から15年以上が過ぎてから「原爆ドームを保存しよう」という機運が高まりましたが、それまでは放置されていたわけです。
 すでに1度原爆が落とされた広島に、もう1度原爆を落とそうと考える人間はさすがにいないと思います。広島で原爆の災禍が反復する可能性は極めて低いでしょうけれども、東北の被災地で地震や津波の災禍はいつか必ず反復します。地震や津波は、残念ながら人間のテクノロジーによって押さえこむことはできません。だからこそ、津波の震災遺構を残すことは原爆ドームの保存以上に意味があると思うのです。
 人間がどんなに努力したところで、津波の反復を止めることはできません。津波の被災地で人がこれからも生き続けるためには、津波と共存するしかないと思うのです。「自分たちは津波が起きうる地域に住んでいるのだ。津波はこの地域の固有の文化である」というくらいの覚悟で住み続けるしかない。
 沖縄では台風とシロアリが木造住居を侵食するため、コンクリートの建物が主流です。3年に1度「大地の芸術祭」が開かれる越後妻有(えちごつまり、新潟県十日町市・津南町)は豪雪地帯のため、1階はコンクリートの車庫、2~3階が住居という建物が目立ちます。台風やシロアリや豪雪は消せないため、人々は台風やシロアリや豪雪と共に生きているのです。

一部保存が決まった、岩手県大槌町の旧町役場(2013年3月11日撮影)

一部保存が決まった、岩手県大槌町の旧町役場(2013年3月11日撮影)

 被災地から津波の記憶をシャットアウトし、土木業者が重機を入れて東京の郊外にあるような町を再建すればいいとは思えません。そのような町を再建したとしても、被災地の人々がこれから「津波と共に生きる」ことは難しいと思うのです。

半世紀放置されたパリ・オルセー美術館

 われわれが博物館に出かけたときに、古代や中世の人たちの生活ぶりについて何を通して知るのでしょう。文字の記録や紙の資料から知ることもできますが、食器や家具、日用品そのものを見ることが最も説得力をもちます。
 モノがすごいところは、一部が割れたり壊れていたとしても、500年や1000年といった時代をさかのぼって想像力をはたらかせることができることです。津波の記憶を人間が語り継ぐこともできますが、人間の記憶は30年もたてばだんだん薄らいでいきます。つい最近登場したデジタル情報は、まだ実績がないので、500年後、1000年後に残っている可能性は100%ではありません。その点、モノは信用できます。
 フランスのオルセー美術館は、パリに行った観光客が必ずといっていいほど訪れる場所です。オルセー美術館は、1900年に建設されたオルセー駅を改装して86年にオープンしました。パリのど真ん中、セーヌ川真横の好立地条件であるにもかかわらず、オルセー駅は数十年使われただけで長らく廃墟として放置されています。
 ミッテラン大統領がプロジェクトを立ち上げ、80年代に入ってから廃駅が何十年ぶりに美術館として生まれ変わりました。何十年も放っておいたおかげで、オルセー駅が美術館の建物として高い価値を生み出したのです。
 震災遺構についても、原爆ドームやオルセー美術館のように「放置する」という選択をするべきではないでしょうか。今を生きるわれわれが震災遺構の使い道を決めなくても、30~40年後を生きる未来の人々がよい使い方を発見するかもしれません。「年度予算」などという枠に縛られ、震災遺構という世界史に残る遺産を解体していいほど、私たちが偉いとは思えないのです。
 もっと言うならば、震災遺構は今を生きるわれわれのものではないとさえ思います。東日本大震災という世界史的な大事件によって生み出された震災遺構は、すでに町のものではなく、人類のものです。500年、1000年というスパンで考えるならば、大津波が起きる可能性は高い。津波の記憶をとどめる震災遺構は、私たちの持ち物ではなく、これから生まれてくる人たちのものだと思うのです。

<月刊誌『第三文明』2013年8月号「震災からの歩み 第24回」より転載>

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いがらし・たろう●1967年、フランス・パリ生まれ。建築史・建築批評家。東京大学工学部建築学科卒業。東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。現職は東北大学大学院工学研究科教授。2010年から、せんだいスクール・オブ・デザイン教員を兼任。著書『建築はいかに社会と回路をつなぐのか』(彩流社)、『現代日本建築家列伝』(河出書房新社)、『被災地を歩きながら考えたこと』(みすず書房)など多数。第11回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展(08年)で日本館展示コミッショナーを務める。2013年8月10日~10月27日に開催された「あいちトリエンナーレ2013」では芸術監督に就任した。