シリーズ 震災からの歩み<2> 東北を日本の先進地に――被災地の声を聞き、見えてきた未来へのヒント

東北学院大学准教授
金菱 清

 東日本大震災直後から、緻密なフィールドワークを続け、被災地の声を聞いてきた金菱清さん。そこから見えてきたものとは何か。

560頁、50万字に及ぶ被災者71人の言葉

 今から18年前の1995年、私は阪神・淡路大震災を経験しましたが、そのときの報道にとても疑問を持っていました。阪神高速道路やビルの倒壊、火災被害が甚大だった神戸市長田区の様子を鳥瞰するような視点ばかりだったことにものすごく違和感を感じていたのです。もっと現場の声がダイレクトに反映された記録が残されてもいいのではないかと思ったのです。また、当時は震災から約2ヵ月後に地下鉄サリン事件が発生し、メディアの注目が完全にそちらに移ってしまいました。
 こうした背景もあって、東日本大震災では現場の声を記録としてきちんと残したいと思い、それが『3・11 慟哭の記録』を編(あ)むことにつながったように思います。
 東日本大震災の当日、私は仙台市の自宅にいました。卒業生や周囲の人たちの安否を心配しましたが、当然すぐには連絡がとれません。その状況下で直感的に、それぞれが震災をどのように感じているのかを集めたら大変な記録になるのではないかと思ったのです。

『3・11働突の記録―71人が体感した大津波・原発・巨大地震』(新曜社)

『3・11働突の記録―71人が体感した大津波・原発・巨大地震』(新曜社)


 この本は、インタビューによって現場の声を集める手法を取っていません。実際に震災を経験した71人の人々が自ら書き記したものになっているのです。こうした形式はよくありそうで、実際にはなかなかないだろうと考え、意図的にそうしました。大学の持つネットワークがそれを可能にしてくれました。
 私が勤務する東北学院大学は、東北のなかでいちばん大きな規模の私立大学であり、学生のほとんどが宮城県を中心に福島県や岩手県の出身者で、地域に根ざした大学です。また、大学出身者も東北の各地に点在しています。このネットワークを活用すれば、ある程度震災の全体像をつかめるのではないかと予想しました。
 まず、震災からちょうど1週間後に当時のゼミ生に「震災リポート」と題した記録を文章にまとめることをお願いしました。提出された文章を読むと、津波には遭っていないにもかかわらず、それぞれの記録は重みのあるものばかりでした。
 5月に新年度の授業が始まったので、1年生の教養科目の授業でもリポートを集めるようにしたのです。そうやってまずは約500人分の学生の記録から始めて、その学生たちをつてにしながら、大学のネットワークも駆使して、地域別、トピック別に記録の収集が始まりました。

文字を綴ることで苦しみが和らいだ

 手記を書いてくださった方々は、そのほとんどが震災後1ヵ月から半年のうちに書いています。まだまだ混乱していた時期ですし、おそらく心の整理もついてないようなころですので、書く人にとってみればものすごく大変なことだったと思います。しかし、その時期でなければ書けないことがあるでしょうし、私自身が記録を残すことに使命感のようなものを持っていたので、執筆を依頼することに迷いはありませんでした。非情に思われるかもしれませんが、ご家族を亡くされた方にも手記の執筆をお願いしました。
 実際に本が出版されてみると意外な反応があったのです。出版後、お礼をかねて遺族の方々を訪問すると、この本をご霊前に置いてくださっている方もいらっしゃいました。聞き取りを重ねていくと、この記録は遺族の方々にとっても、すごく意味のあることだったとわかってきました。
 大切な家族を亡くす経験は、当然ながら筆舌に尽くしがたい悲しみや苦しみです。それを乗り越えるための1つの手段として、カウンセリングを受けることがあるのですが、ある遺族の方は受けたくないと話していました。
〝カウンセリングを受ければ、苦しみからは逃げることもできるし、つらいことを忘れることもできるかもしれないけれど、忘れ去ってしまうこと自体が亡くなった肉親に対して悪い〟とおっしゃるのです。心の痛みを正面から受け止めようとしていたのです。
 また東日本大震災では、地震発生から大きな津波の襲来まで、場所にもよりますが、45分程度の時間差がありました。もし自分が何とかしていれば、肉親は助かったのに、と自責の念を強く持っている遺族の方がたくさんいました。
 そうした状況で手記を執筆することは、単なるカウンセリングとはまた違い、「死者」と向き合い、「死者」との語りをとおして書きとめることでもありました。そしてそれは、心の痛みを残しつつも、執筆者自身の苦しみを和らげることになっていたのです。息子さんを亡くされたある方は、「息子と一緒に手記を書いた」と言われていました。これは自分自身が父親としてできる最後の仕事だと位置づけられていたのです。
 結果的に、このプロジェクトは大がかりな記録を残すことだけでなく、執筆者それぞれにとっても意味のあることだったことがわかったのです。

それでも海で暮らし続ける人々

『3・11 慟哭の記録』は責任感と使命感でつくりあげた感じでした。しかし、学問的には私の専門とはかけ離れています。それを軌道修正する形で『千年災禍の海辺学 なぜそれでも人は海で暮らすのか』を企画したのです。
 被災地を歩いていて感じたことは、行政が住民たちを海から逃がそうとしていることでした。しかし、それが本当に最適な手段なのかという疑問の声は、多くの現場で耳にしました。これに対して、学問的なアプローチでいかに応えていくかが、この本をつくる1つのきっかけになっています。
 ある番組のコメンテーターが非難の意を込めたように〝被災者たちは過去に3回も津波に遭っているのに、また同じ場所に戻ろうとしている〟と言っていました。私は、こうした声は日本人の一般的な意見なのだろうと思いました。

『千年災禍の海辺学 なぜそれでも人は海で暮らすのか』(生活書院)

『千年災禍の海辺学 なぜそれでも人は海で暮らすのか』(生活書院)


 しかし、その一般的な意見は、テレビで流されていた津波の映像だけしか見ていない人たちのものだと思うのです。確かに、住民を海辺から移転させる方法は、直接的な「命のリスク」を考えれば間違っていません。むしろ当然の処置と言えるでしよう。
 ただし、過去の事例を検証すると、地元からの強制的な移転に伴ってさまざまな問題が生じることもわかっています。たとえばコミュニティーの分断が1つの原因となって、認知症やアルコール依存症の発症、自殺の増加などが見られるのです。
 では、どのようにすればよいのか。これを、海辺で暮らしている人々の日常の営みと正面から向き合うなかで考えていきたいと思ったのです。
 行政は、津波被害のリスクに対しては大々的な措置を講じています。巨大な防潮堤の建設や、高台移転、災害危険区域の設定といったものです。しかし、それらの政策決定には地元住民の声がきちんと反映されてないことも多い。
 住民の声が届かないまま政策を進めることによって別の問題が誘発されているのです。行政には、包括的に対処していく視点が抜け落ちているように感じています。

〝過剰なコミュニティー〟から得られるヒント

 三陸の海岸を回るなかで、非常に興味深いことがありました。それは〝過剰なコミュニティー〟の存在です。周囲から見れば、自治会がそこまで介入し面倒を見るのかと驚くくらい〝過剰な〟試みを、住民たちが自ら行っているケースがあります。
 仮設住宅の道路に車が進入できないようにして、子どもたちの遊び場をつくったり、高齢者の憩いの場としてティールームを設けたりというようなケースであれば、わりと一般の自治会などでも見られることかと思います。
 私がまず驚いたのは、住人が飲むお酒の量が増えていないかを把握するために、自治会が個人のゴミをチェックしているケースでした。もちろん、それを批判的に見るならば、囚人を監視するような行為に見えます。普通のコミュニティーでは考えられないことです。ではなぜそこまでやっているのでしょうか。
 阪神・淡路大震災と今回の震災の決定的な違いの1つは、津波による行方不明者が多かったことです。亡くなったのか生きているのかわからない、いわば〝中間領域〟がものすごく大きい。こうした場合、残された人々のなかでアルコール依存症や自殺などが増えやすくなるといわれています。これらの2次被害を防ぐための1つの対処方法として過剰なコミュニティーが生まれたのだと感じました。
 その過剰なコミュニティーのなかで、私が注目した3つの取り組みがあります。
 1つ目は、自治会で被災地ツアーを開催するというものです。一般的に被災地ツアーというと、外の地域の人々が被災地を回る催しのことを指しますが、このツアーは、被災者自身が自分たちの住んでいた場所やそのほかの被災地を回るというものです。
 何もかもなくなってしまった自分たちの町を見て、みんな涙を流したそうです。しかし、1人で見に行ったとしたら悲しみが深まるだけなのかもしれませんが、集団でみんなが同じ気持ちを共有することによって、意外にも悲しみを前向きな気持ちに転換することができたといいます。また、自分たちの町よりも復興が進んでいるところを見て、将来の復興のビジョンを共有することができたそうです。
 2つ目は、行政の主催ではなく、自治会の主催で慰霊祭を行うことです。そこでは宗派を超えた催しにするため、慰霊の歌として「故郷」や「春の小川」を全員で歌いました。その日をめざして歌の練習をするわけですが、みんなで歌うことが楽しくて、笑いが絶えなかったといいます。
 そして、3つ目は、先ほどのゴミのチェックにも関係する問題なのですが、自治会主催の居酒屋をつくるというものです。
 アルコール依存症を防ぐ一般的な方法は、禁酒という形で規制をかけることでしょう。しかしそこの自治会の発想はまったく逆で、みんなでお酒をたしなんで楽しむために居酒屋を立ち上げたのです。1人で仮設住宅に閉じこもってお酒を飲めば、際限なく深夜まで飲むことになり、アルコール依存のリスクが高まります。コミュニティーの居酒屋はこれを防ごうとする試みです。昼間に住民同士の交流の場として設けられているティールームなどへは、恥ずかしくてなかなか参加できない中高年男性にとって、居酒屋であれば参加しやすい利点もあります。
 これらの事例が現実に効果を挙げていることを考えると、大規模災害が起き、コミュニティー分断の危機が迫る緊急事態においては、平時では嫌がられるような過剰なコミュニティーにも大きな意味があるはずです。
 今東北で起こっていることは、30年後の日本の未来ではないかと思います。今後大きな地震・津波がどこかで起きた場合、その付近の都市で災禍を免れるところは極めて少ない。震災はもとより、過疎化や地域の疲弊の問題などにしても、東北にはある種の先進性があります。日本のほとんどの人にとって、東北は先進地でありお手本になると思います。

<月刊誌『第三文明』2013年9月号「震災からの歩み 第25回」より転載>

関連記事:
シリーズ 震災からの歩み<1>――人間と震災遺構――津波と共に生きる(東北大学大学院工学研究科教授 五十嵐太郎)


かねびし・きよし●1975年、大阪府生まれ。関西学院大学社会学部卒業。同大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学。2005年、東北学院大学教養学部地域構想学科専任講師、07年に同准教授に。著書に『生きられた法の社会学』『体感する社会学―Oh! My Sociology』(いずれも新曜社)、編著に『3・11働突の記録―71人が体感した大津波・原発・巨大地震』(新曜社)、『千年災禍の海辺学 なぜそれでも人は海で暮らすのか』(生活書院)がある。