シリーズ:東日本大震災10年目~「防災・減災社会」構築への視点 第3回 つながる語り部たち(上)~東北から阪神、熊本、全国へ~

フリーライター
峠 淳次

語り部バス~未来の命を守りたい~

 ゆっくりと動き始めたバスに向かって、ホテルスタッフたちが口々に呼び掛ける。「いってらっしゃーい」「しっかり学んできてくださいねー」。つられるように乗客たちもバスの窓越しに手を振って応える。「はーい、いってきまーす」「うんと学んできますね」――。東日本大震災後、宮城県南三陸町の志津川湾を望む高台に立つ「南三陸ホテル観洋」の玄関口で、毎朝見られる光景である。
 バスに乗り合わせているのは、前日からのホテル宿泊者たち。これから1時間近くをかけて、骨組みだけとなった旧防災対策庁舎や被災直後の姿をほぼそのまま残す高野会館など、震災遺構と復旧復興工事の最前線現場を見て回る。案内するのは、自宅を津波で流されるなど自らも被災者となった同ホテルのスタッフと地域の住民たち。「語り部」として日替わりで乗車し、あの日の体験と教訓を語り伝える。
 この日の語り部は、同ホテル第一営業部次長の伊藤俊さん(45)。

 この写真は津波襲来直後のわが家の姿。天井に冷蔵庫が突き刺さっているのが分かりますか。私も家族も家に残っていたら、間違いなく生きていなかったと思います。

 車窓左側に小高い丘が見えます。あの日、ここに建っていた旧・戸倉小学校の子どもたちが避難して、寒空の下、一夜を過ごした場所です。学校は津波に襲われましたが、児童たちも教員たちも皆、助かりました。日ごろの避難訓練で、より高い場所へ逃げる大切さを学んでいたおかげでした。

 窓外に広がる被災地の風景に伊藤さんの〝証言〟を重ね合わせながら、乗客らは壮絶な〝生と死のドラマ〟が繰り広げられたあの日に思いを馳せ、命を守る教訓を学んでいく。
 その名も「震災を風化させないための『語り部バス』」と称するこの取り組みを同ホテルがスタートさせたのは、震災から2カ月後の2011年5月。

 千年に一度の災害は千年に一度の防災・減災学習の場。多くの命が犠牲となった被災地にあって、生かされた私たちには3・11の体験と教訓を語り伝え、明日へとつないでゆく使命と責任がある。

震災遺構の高野会館の屋上で震災当日の様子や街の復興の現状などについて聞く「語り部バス」の乗客ら=2020年2月25日 宮城県南三陸町

 同ホテルの女将、阿部憲子さん(みやぎおかみ会会長)のそんな思いから企画された。
 以来、バスは1日も欠かさず走り続け、これまでに全国から延べ39万人の個人客や企業、自治体などの防災学習団体、修学旅行生らを案内してきた。2017年には、「震災体験を宿泊客に伝え、防災意識の向上と震災風化の阻止に大きく貢献してきた」として、政府観光局などが主催する「ジャパン・ツーリズム・アワード」の大賞(現在は国土交通大臣賞)にも選ばれている。
 もとより同ホテルは、震災直後には二次避難所として600人余の被災者を受け入れ、その後もボランティアや医療団体の活動拠点として開放したり、町内の仮設住宅を巡回する「観洋ぐるりんバス」を無料運行したりと、さまざまな支援活動を実施してきた。被災した児童・生徒の学習支援を目的に、大学生ボランティアらの協力を得て立ち上げた無料の学習塾やそろばん教室は、「語り部バス」同様、震災から9年半を過ぎた今も続いている。

 無我夢中で走り続けた歳月はそのまま、災害に際してホテルが果たすべき新たな役割と可能性を発見する日々でもありました。

 来し方9年を阿部さんはしみじみと振り返る。

「災害語り部元年」~全国シンポジウム開催~

毎年、全国から400人以上の災害語り部らが参加する「全国被災地語り部シンポジウム」。5回目の開催となった今年のシンポも活発な討論が展開された=2月24日 宮城県南三陸町のホテル観洋

 そんな同ホテルに、東北の被災3県や阪神淡路大震災の地など各地で語り部活動を行う人々が集結したのは、3・11からちょうど5年の節目を刻んだ2016年3月のことだった。「教訓を未来へ語り継ぐ」をテーマに、2日間にわたって語り部の使命と責任、役割について討論した「第1回全国被災地語り部シンポジウム」の開催である。
 周知の通り、阪神淡路大震災が発生した1995年は、「ボランティア元年」と呼ばれる。全国から多くのボランティアが兵庫の地に駆け付け、圧倒的な〝草の根のパワー〟を見せつけるとともに、これを機に各地のボランティア団体や個人が手を結び、広範なネットワークを築くなど、その後のボランティア活動の急成長につながる第一歩となったからだ。地震であれ豪雨であれ、今や災害からの復旧復興に彼ら彼女らの存在は欠かせない。
 この事例にならって言えば、日本の災害史上、総勢400人を超える全国の被災地の語り部たちが初めて一堂に会した2016年は、「災害語り部元年」と呼んでよいのではないか。実際、シンポジウムはその後、会場を兵庫県淡路市や熊本市などに移しながら毎年2~3日間にわたって開催され、そのネットワークを列島全域に広げてきた。参加者も地震・津波の被災者だけにとどまらず、豪雨、台風、火山噴火などさまざまな災害の経験者にまで広がり、最近は海外からの参加者も目立つ。今年2月に再びホテル観洋で開かれた第5回シンポジウムでは、「『KATARIBE』を世界へ」とのテーマの下、外国人パネリストも討論に加わった。2016年の集いこそは、まさに〝はじめの一歩〟に違いないのである。

熊本市で開かれた第3回シンポでは雲仙・普賢岳噴火土石流災害の爪痕を残す長崎県南島原市の被災家屋保存公園も視察した=2018年12月10日

 ちなみに筆者は、これまで開かれてきた計5回のシンポジウムをすべて取材し、ときに一参加者として討論の輪にも加わってきた。南三陸町では「語り部バス」を体験し、淡路市では阪神・淡路大震災の際に地上に出現した野島断層(国天然記念物)を、熊本市のシンポジウムでは熊本城の復旧工事現場や長崎県の雲仙・普賢岳の噴火土石流災害跡地を、それぞれ地元の語り部らの案内で見て回る機会も得た。
 今ここで、それらすべての討論や視察の模様を紹介する余裕はないが、立場も生活環境も被災状況も異なりながら、自然災害の恐ろしさを肌身で知る点では一致する語り部たちが語る証言の重さと教訓伝承への熱い思いには、毎回、深い共感と尊敬の念を覚えずにはいられなかった。
 例えば、東日本大震災で84人の児童・教職員が犠牲となった宮城県石巻市の大川小学校で、当時6年生だった次女を失った佐藤敏郎さん(「小さな命の意味を考える会」代表、「大川伝承の会」共同代表)が吐露した思い。

あの日、大川小で何があったのかを話さないでいたら、あいまいなまま、やがて忘れられてしまう

あの日を伝えることで、悲しみは明日への希望に変わる

 もう一つ、回を重ねるごとに語り部たちの間に〝顔の見える関係〟が生まれていったことも見逃せない。情報や知識、体験が広く共有されるようになり、期せずして活動の形態も語りの中身も多様化し、より説得力が増していった。
 2017年の第3回シンポジウムでパネリストを務めた日本外国特派員協会のメリー・コーベット理事の言葉を借りれば、

自身の地域で起きた災害を全国規模の視点で捉え直し、その上で『語り』を行う

というスタイルが形成されてきたということだ。今年2月の第5回シンポジウムで、「これまでのシンポジウムで得た知見を生かし」「映像、歌、写真、多言語、ウェブなどを組み合わせた多様な形の伝承に努め」「ゆるやかなネットワークを一層展開する」ことが、全参加者の総意として「語り部宣言」に謳われたゆえんでもある。
 毎回のシンポジウムで実行委員を務める神戸大学地域連携推進室学術研究員の山地久美子さんが強調する。

 ハードの防災・減災を担う行政だけでは、激甚化する災害から命を守ることはできない。ソフト面を担う民間の力、つまりは語り部同士の交流拡大を通した、より多角的で効果的な教訓伝承の仕組みづくりが不可欠で、そこに語り部シンポジウムの意義、目的がある。

 ただ、ここに来て、予期せぬ事態が語り部たちを襲っていることも事実だ。言わずもがな、語り部活動の生命線ともいうべき「話すこと」「行動すること」自体を否定するかのような新型コロナウイルス禍である。この危機にどう対処し、伝承の灯をともし続けていくか。
 次回は、「ウィズ・コロナ」「アフター・コロナ」の時代を見据え、あの手この手で悪戦苦闘する語り部たちの姿を東北被災3県の現場から紹介する。

シリーズ「東日本大震災10年目「防災・減災社会」構築への視点」:
第1回 「3・11伝承ロード」構想(上)
第2回 「3・11伝承ロード」構想(下)
第3回 つながる語り部たち(上)~東北から阪神、熊本、全国へ~

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とうげ じゅんじ●1954年大阪府生まれ。創価大学文学部卒。1979年公明新聞入社。 東日本大震災取材班キャップ、 編集委員などを経て2019年からフリーに。編著書に『命みつめて~あの日から今、そして未来へ』(鳳書院)など。