シリーズ:東日本大震災10年目「防災・減災社会」構築への視点 第1回 「3・11伝承ロード」構想(上)

フリーライター
峠 淳次

 東日本大震災から9年以上が経過した。被災地では復旧・復興が進み、東北の太平洋沿岸には「新しい街」が相次ぎ誕生している。だが一方で、あの日の出来事は日々に後景へと引き、記憶の風化が懸念されている。〝次なる災害〟に向け、私たちは「千年に一度の大災害」に何を学び、その経験や教訓をどう生かしていくべきか。シリーズ「『防災・減災社会』構築への視点」と題し、発災10年目を迎えた被災の現場から考える。第1回は産学官民一体で取り組む「3・11伝承ロード」構想から。

現代版「おくのほそ道」

 俳聖・松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅に出たのは元禄2年(1689)春のことだった。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也……」と旧暦3月27日(新暦5月16日)に江戸を出立。梅雨入り前後のちょうど今ごろ、同4月20日(同6月7日)には白河の関(福島県)を越え、みちのくの地に一歩を印した。
 全行程約600里、150日間近くに及んだこの旅で芭蕉がつかんだ境地は「不易流行」という考え方だった。時の流れとともに変化しゆく無常(=流行)な世界も、実は永遠不変(=不易)の調べの中にあり、「元は一つ」という世界観だ。
 実際、芭蕉は旅の前半、古(いにしえ)より和歌に詠まれてきた、みちのくの歌枕(名所)を巡り歩くが、行く先々でその荒廃ぶりに落胆し、「泪(なみだ)も落るばかり」に無常な時の流れを嘆く。だがやがて、千変万化の現象世界の奥に常住不変のリズムが脈打っていることを悟り、それを蕉門(芭蕉一門)の俳句論へ、さらには独自の人生観、自然観、世界観へと昇華させていく。『おくのほそ道』が単なる紀行文でなく、世界的な文学作品とされるゆえんである。
 さて、本題――。

「3・11伝承ロード」の主な施設

 みちのく路を行く中で普遍的な新境地を獲得した俳聖の、この壮大な挑戦に倣(なら)って今、東北太平洋岸の大震災被災地で、「現代版おくのほそ道」とも呼ぶべき野心的な取り組みが始まっている。その名も「3・11伝承ロード」構想。みちのくの歌枕の廃墟と化した姿に涙した芭蕉の心境を、3・11後の荒涼たる東北太平洋岸の風景を見たときの私たちの悲哀に重ね合わせ、そこから災害列島を生きる全ての日本人が身に付けるべき防災・減災の新しい作法を、被災地の震災遺構や伝承施設、爪痕を訪ね歩くことで探り、体得していこうという試みである。
 発案者の一人で、昨2019年8月に発足した「3・11伝承ロード推進機構」の理事を務める徳山日出男・政策研究大学院大学客員教授(元国土交通省事務次官、震災当時は同省東北地方整備局長)は、

「おくのほそ道」を手に芭蕉がたどった道を歩けば、自らの人生観や自然観を磨くことができる。同じように、被災の現場をつなぐロードを歩いて命を見つめ、生きる意味を問い直し、その結果として、生きた教訓に基づく「防災意識社会」をこの国に築きたい。

と語っている。

経緯 ~鎮魂そして伝承へ~

津波で校舎3階の教室まで押し流され、仰向けになった車。津波の圧倒的な破壊力が肌身に伝わってくる=宮城県気仙沼市の「東日本大震災遺構・伝承館」

 もとより伝承ロードの発想は、今に始まったわけではない。似た考えは震災直後から多くの識者や市民グループの間で語られ、2011年6月には政府の復興構想会議でも「復興構想7原則」の一つとして示された。
 ただ、具体的な形となって動き出すには、時期が早すぎた。死者・行方不明者2万2千人余(その後の関連死も含む)、全壊家屋12万2千戸、最大避難者数47万人という大惨事の中、優先されるべきは目前の復旧・復興であり、それ以上に、亡くなった方々への鎮魂と追悼の祈りだったからだ。「忘れたい」「記憶を消したい」との多くの遺族、被災者らの心情を思えば、「伝承」を前面に押し出すことは憚(はばか)られた。
 潮目が変わったのは、七回忌となる震災6年の節目を過ぎた頃からと思われる。歳月が遺族や被災者らの心を慰め、いい意味での〝区切り〟となった。加えて、2014年の広島土砂災害や御嶽山噴火、15年の関東・東北豪雨、16年の熊本地震、さらに17年の九州北部豪雨など大規模な自然災害が相次いだことも大きかった。「記憶を風化させてはならない」「3・11の教訓を伝えたい」との思いが、静かに、だが確実に被災地に広がっていった。「『鎮魂・慰霊の場』は『教訓・伝承の場』でもあるべき」との意識の芽生えである。
 こうした状況下、18年7月に東北地方整備局と青森、岩手、宮城、福島各県に仙台市が加わって、「震災伝承ネットワーク協議会」が発足。その後、地元経済界や大学・研究機関などでつくる「震災伝承検討会」での議論や、東北大学災害科学国際研究所など東北学術4団体による提言などを経て、翌19年1月、石井啓一国交相(当時)が「3・11伝承ロード」の推進を正式に表明。8月には、民間主導で伝承ロードの構築と運営を支援する「3・11伝承ロード推進機構」(代表理事=今村文彦東北大学災害科学国際研究所長)も設立され、名実ともに産学官民一体で取り組む体制が整った。すでにマップやパンフレットのほか、統一的な案内標識(ピクトグラム)も作成され、国道などへの設置が順次、始まっている。実際にロードを巡る研修ツアーも二度、試験的に実施されてきた。

意義・仕組み ~教訓の宝庫~

6階建ての建物の4階まで浸水し、1、2階が完全に破壊されてしまった岩手県宮古市の「津波遺構 たろう観光ホテル」

 ここで改めて確認しておきたいのは、東日本大震災は前例のない「広域災害」であり、未曽有の「複合災害」だったという点だ。被災域は太平洋沿岸500キロメートルにも及び、地震・津波という自然災害に原発事故という科学災害も重なった。激甚性と広域性と複合性という3つの要素が一つとなって東北の地を襲ったのだった。したがって、被災の実態もその後の復旧・復興の歩みも、都市部と周辺部、沿岸域と内陸域、福島と他県の間でそれぞれに異なる様相を見せ、覆い難い〝復旧格差〟〝復興格差〟をもたらすことにもなった。
 だが、このことは裏を返せば、多種多様にして無数の経験と教訓が東北の地に蓄積されたことを意味する。先に紹介した推進機構の徳山理事の言葉を借りれば、東北こそは普遍的な『教訓の宝庫』」なのであって、地震、津波から台風、豪雨、火山噴火まで「あらゆる災害に応用できる教材が揃った『学校』」ということだ。
 実際、岩手県釜石市の小中学校では「津波てんでんこ」(津波が起これば〝てんでばらばら〟に逃げるのを競う)の考え方で子どもたちが一斉避難して全員助かったが、宮城県石巻市の大川小学校では74人もの児童と10人の教職員が犠牲となった。何がこの差を生み、明暗を分けたのか。単なる偶然にすぎなかったのか。現地に足を運び、遺構や伝承施設を見学し、語り部たちの話に耳を傾ければ、少なくともその「回答」に迫り、多くの事実や教訓を、現実感をもって学び取ることができるだろう。そうして、3・11が決して「人ごと」でなく、「自分ごと」の問題であることに気づくはずだ。
 東北太平洋岸に点在する、これら遺構や震災伝承施設の数々を有機的に繋いでネットワーク化し、その基盤に立ってさまざまな教訓伝承活動の展開をめざす伝承ロードは、いわば、この「気づき」を促す装置と言っていいだろう。推進機構の今村代表理事も

今後も増え続ける災害に対応するには、東日本大震災での教訓の分類・整理と伝承が不可欠

として、〝伝える側〟と〝承(うけたまわ)る側〟が共に学べる場としての「伝承の道」構築の意義を強調してやまない。
 ちなみに、これまでに自治体や民間団体からの申請を受けて登録された伝承施設は、北は青森県八戸市の「みなと体験学習館」や岩手県宮古市の「津波遺構 たろう観光ホテル」などから、南は宮城県名取市の「津波復興祈念資料館 閖上(ゆりあげ)の記憶」や福島県いわき市の「アクアマリンふくしま」などまで計224件(20年6月1日現在)。震災発生当時の状況や体験を生々しく伝える建物や防潮堤などの遺構、防災学習の拠点として新たに整備された資料館や交流施設、追悼と伝承と復興への意志を発信する場としての祈念公園などさまざまな形をとりながら、いずれも「そこでしか学べない教訓」を今に伝えている。

 震災伝承施設は交通機関の利便性や案内員の配置、語り部活動の有無など施設の特性に沿って3分類され、ネットなどで紹介されている。詳細は「震災伝承ネットワーク協議会のホームページ」まで。

シリーズ「東日本大震災10年目「防災・減災社会」構築への視点」:
第1回 「3・11伝承ロード」構想(上)
第2回 「3・11伝承ロード」構想(下)
 
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とうげ じゅんじ●1954年大阪府生まれ。創価大学文学部卒。1979年公明新聞入社。 東日本大震災取材班キャップ、 編集委員などを経て2019年からフリーに。編著書に『命みつめて~あの日から今、そして未来へ』(鳳書院)など。