特集㉒ 〝法滅〟の法主——黒い歴史を背負った日開と日顕

ライター
青山樹人

嫉妬を募らせた阿部日顕

 1980年代の池田SGI会長の仏法者としての世界的な活動を、苦々しい思いで見ていた人物がいた。日蓮正宗法主(当時)の阿部日顕である。
 自宗の信徒の代表が世界に貢献し、賞賛されている。本来ならもっとも喜び讃え、もっとも感謝しなければならないのが日顕の立場だ。
 しかし、日顕は何も嬉しくない。
 自分は〝御法主上人猊下〟であり、SGI会長は信徒だ――。だが、SGI会長と世界の1000万の学会員は深く強い絆で結ばれている。皆がSGI会長を敬愛している。
 自分にあるのは盗み取った〝法主〟の権威だけである。その権威すら、宗内から地位不存在の訴訟を起こされ、当然ながら、反論もまったくおぼつかない。
 自分は折伏もできない。ただの一度も命を削る思いで誰かを励ましたことなどない。世界どころか日本国内のどんな識者からも相手にされない。会ったところで話す言葉も教養も持ち合わせていない。
 もとはといえば、何の資質もない人間が、盗み取った法主の座に居座っているのである。僧俗の「上下」を執拗に強調し、〝衣の権威〟で1000万信徒を見下してみたところで、偉ぶれば偉ぶるほど、自分の卑小さを嗤(わら)われている気がする。日顕は、SGI会長に嫉妬を募らせていく。
 日顕は1922年12月、日蓮正宗総務であった阿部法運と、向島・常泉寺で働いていた彦坂スマという若い女性のあいだに「彦坂信夫」として生まれた。この僧侶にあるまじき〝女犯〟によって、法運は日柱法主から降格処分を受けている。
 だが、阿部法運は逆に宗内に工作を仕掛けて日柱法主を引きずりおろし、1928年に第60世法主・日開となる。日顕が日開の子どもとして認知され得度したのは、この年である。
 この60世法主の座を巡って日開は宗内で激しい抗争を繰り広げ、警察の取り調べまで受けている。
 日蓮正宗の歴史は、彼らの言う〝富士の清流〟とはかけ離れたものだ。
 1931年、日蓮宗身延派が日蓮大聖人の650年遠忌にあたって昭和天皇から「立正」の勅額を得ようとした際、文部省は日蓮宗各派に異論なき旨の念書の提出を求めた。日開は日蓮正宗の法主でありながら、この念書を提出している。
 その日開の息子である日顕は、1947年に東京・墨田区の本行寺住職、61年に宗門の教学部長となり、63年には京都の平安寺に赴任した。77年、墨田区の常泉寺住職。79年5月1日に総監となり、日達の急逝を受けて、同じ79年8月6日に大石寺住職・日蓮正宗管長(法主)となった。

「腹黒く、インチキが多い」

 もともと日顕は、創価学会に対して好感情を持っていなかった。
 戦後まもない頃、ある新興宗教の幹部だった男が創価学会に入会した。木場で名の通った材木商だったこの男は、やがて自分の資力を頼みに戸田会長に対抗心を燃やし、1950年秋に数十人の学会員を引き込んで新しい「講」を結成する。
 この講の結成を許し、自分の寺に所属させたのが、本行寺時代の日顕だった。日顕が日昇法主や日淳法主と同じように創価学会の仏法上の使命を捉えていたら、むしろ男の愚挙を戒め、講など作らせなかっただろう。
 だが日顕は、学会員が抗議に行くと、「創価学会員である前に、日蓮正宗の信徒であります」と言って、この分派活動を擁護した。
 戸田会長に対抗して創価学会を飛び出したこの男は、やがて倒産し、木場の仲間から救いの手も差し伸べられず、一家離散して失意のうちに世を去った。この話は、本行寺の名前を伏せて、小説『人間革命』第4巻にも記されている。
 また、1952年に創価学会が宗教法人の認証を受けようとした際、日顕はこれに反対した。このことは、日顕自身が告白している。

 私は、創価学会が宗教法人を取得する時に、弱冠20何歳でしたけれども、「これは違います」と、時の宗務院の人に言ったのであります。しかし、それは聞かれませんでした。(1994年4月、海外信徒との目通りの席での発言)

 こうした経緯から、戸田会長は日顕のことを警戒し、「阿部は腹黒く、インチキが多い。気をつけよ」と周囲に注意を促していた。
 日顕自身、戸田会長から不信感を持たれていたことを十分に承知していた。戸田会長の逝去に際して、彼は宗門機関誌『大日蓮』(1958年5月号)に次のような追悼文を寄せている。

 私の罪障と云はうか、先生の云ういはゆる坊主根性のためか、昭和二十四年頃の私は、自らの心にある垣根を作り、それが円融闊達にして師厳道尊なる先生の精神に半ば通じない事があった。

 日顕自身が、戸田会長の邪魔をした自分の「坊主根性」を詫びているのである。

日達の業績を破壊し尽くす

 疑惑の〝相承〟によって法主に登座した日顕は、「祖道の恢復(そどうのかいふく)」をスローガンに掲げた。
 祖道とは、宗祖・日蓮大聖人の精神という意味である。だが日顕がやったことは、宗祖の精神とは対極の、信徒に対する出家の特権化であった。
 江戸時代さながら出家と在家の〝上下〟を唱え、僧でありながら折伏もせず、信徒に君臨し、信徒の供養を集めて貴族のような暮らしを目論んだ。
 自身の相承の疑惑を告発し、法廷闘争を起こしてきた正信会僧侶については反論もできず、82年までに相次いで擯斥(ひんせき)処分を下し、181名を宗内から追放した。
 ただし、この擯斥された正信会僧侶たちも非道さでは負けていない。彼らが住み着いている寺院も、もとは学会が寄進したものだ。だが、さんざん創価学会を攻撃し、謗法呼ばわりし、会員を苦しめながら、擯斥されてもなお、彼らはそのまま学会から寄進された寺院に居座ったのである。
 日蓮正宗は司法の場で明け渡しを争おうとしたが、法主・日顕の地位の正当性を法廷で証明できないために、一挙に大量の末寺を失うことになるのである。
 日顕は、宗門が一方的に地位を奪った法華講総講頭(宗内全信徒の代表)に再び就任するよう池田SGI会長に懇請した。SGI会長は何度も辞退したが、84年1月、再度の総講頭に就任した。
 同年3月、創価学会は「200カ寺建立寄進計画」を発表。全国各地で新寺院の建設に着手した。学会はようやく会館建設の整備に着手したばかりであり、まだまだ会館の絶対数が足りなかった。そのなかで、広宣流布のため、僧俗和合のため、再び宗門に未曾有の供養をしたのである。
  一方、日顕は総本山の寺域から、先師である日達の功績を徹底して排除しはじめた。
 86年には新しい六壷の建設を発表し、日達時代に建てられた鉄筋コンクリートの六壷を取り壊す。その北側にある日達が丹精していた「流れの庭」も撤去した。
 日達時代に植えられた境内の桜278本を伐採し、日達が学会から寄進を受けた大化城、大客殿も取り壊して、いずれも和風の伽藍に造りかえている。
 平安寺時代に京都の他宗派の伽藍にあこがれを募らせていたのだろうか。大石寺は日顕の代になって、他宗派の寺院を継ぎ接ぎしたような風情に変わっていくのである。

※この記事は『最新版 世界広布新時代への飛翔』(青山樹人著/鳳書院)をベースに加筆修正したものです。

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あおやま・しげと●著書に『宗教はだれのものか』(2002年/鳳書院)、『新装改訂版 宗教はだれのものか』(2006年/鳳書院)、『最新版 宗教はだれのものか 世界広布新時代への飛翔』(2015年/鳳書院)など。WEB第三文明にコラム執筆多数。