書評『歪んだ正義』――誰もがテロリストになり得る

ライター
本房 歩

「普通の人」がテロを起こす

 話題の書籍である。まず、著者の略歴と本書が生まれた経緯を簡単に紹介しておこう。
 著者の大治朋子氏は1989年に毎日新聞入社。東京本社社会部を経て2006年秋から4年間ワシントン特派員。2013年春からエルサレム特派員をつとめ、2019年秋に東京に戻って編集委員となった。
 社会部時代には調査報道で2度の「新聞協会賞」と、「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞している。
 この間、2017年夏から2年間休職して、イスラエルの大学院でテロリズムに関する研究生活を送り、テルアビブ大学大学院(危機・トラウマ学)を首席で修了した。
 治安当局にもマークされていない「普通の人」が、一匹狼(ローンウルフ)的にテロを起こすことは、世界的にも近年増加している。
 そこで「普通の人」がどのようなプロセスを経て過激化するのか、その「地図」を用意して共有しようと考えたのが本書執筆の動機であったという。

 過激性はどこから生まれ、どのように育つのか。そうしたプロセスを可能な限り「見える化」することで、個々人、あるいはその愛する人が過激化プロセスにあるのかどうか、あるとすればどの位置にいるのかを認識し、暗くて深い過激化トンネルへと落ちるのを防ぐ、もしくは落ちたとしてもそこから引き返すために手がかりとなりそうな情報をまとめている。(本書『歪んだ正義 「普通の人」がなぜ過激化するのか』

過激化への5段階

 テロが起きるたびに、メディアや専門家はテロリストが凶行に至った背景をさまざまに語る。移民、貧困、宗教、家庭環境などだ。
 けれども、もとよりそうした属性や環境下に置かれた人々が、誰でもテロリストになるわけではない。「過激化」には、やはり相応の要因があり、プロセスがある。
 著者はそのプロセスとして、5つのステップを本書で提起している。
 第1は「なぜ」という疑問。第2は「ナラティブ(物語)作り」。第3は「過激化トンネル」。第4は「『宣伝グセ』としての犯行予告」。第5は「トリガー(きっかけ)」。
 なんらかの個人的な悩みを抱えると、人は「なぜ」自分が苦しい思いをしているのか分かりやすい答えを欲する。それはしばしば容易に、政治的・社会的な不正義への憤りにすり替えられる。
 人は「見たい情報」だけを集め、信じたいことを裏付けたがる。デジタル環境は、この「認知バイアス」との相乗作用で過激化を促す大きな牽引力になっていると著者は指摘する。
 特定の国や民族、政権や政党、イデオロギーなどへの〝憤り〟を煽る情報はネット上、SNS上にあふれている。
 さらに人間は、物語を通して世界と自身を理解することを求める生きものだ。
 前述の「見たい情報」を探していくなかで、自身の体験や状況と重なる「情緒的な共感」をもたらすナラティブに触れると、その情報を取り込みたいという感情を抱いてしまう。

「歪んだ正義」はいかに生まれるか

 第3の「過激化トンネル」とは、世の中を善と悪、加害者と被害者など単純明快に「カテゴリー化」するプロセスだと著者は記している。
 ここで、「悪」である「外集団」は〝人間ではない〟と非人間化される。
 この「過激化トンネル」のなかでは、相手の価値を下げるだけでなく、自分のイメージをより大きくする〝価値の入れ替え〟がおこなわれていると著者は指摘する。
 その結果、自分やその所属集団を抑圧してきた相手に報復することが、自身の使命であるといった「歪んだ正義」が生まれる。
 人がこの「歪んだ正義」に固執するメカニズムとして、著者はメリーランド大学のアリエ・クルグランスキ教授らの2つの指摘を紹介している。
 1つは、『夜と霧』の著者フランクルが提唱した「意味の探求」。いま1つは、マズローの「欲求5段階説」。誰しもが持つ欲求の最終形態の「自己実現」が、利他的な行為としてではなく(本人は利他的だと思っている)、非合法の暴力でおこなわれているのがテロではないかという指摘だ。
 ローンウルフに犯行の予告や示唆などの傾向が見られるのは、承認欲求と同時に、自分の行為を正当化したいというプロパガンダである。
 そして、最後のトリガーとなるのは多くの場合「喪失感」で、とりわけ「死」に触れることだと著者はいう。
 人は「死」を喚起されると、より大きなもの、集団の価値観に同一化したい欲求に駆られる。そのことで自分の一部が死後も残っていく「象徴的不死の発想」だ。
 どのような死生観をもつかは重要なのである。
 そして、過激化へのステップに迷い込むことは、なにも欧米や遠い紛争地帯だけの話ではない。じつは日本に暮らす私たちの日常にもある。

 例えばコロナ禍においても、日ごろ政治的な発言を控えていたような有名人が活発に政権を批判する姿や「自粛警察」の動きが目立ったが、この理論に従えば、こうした言動はコロナにより「死」を喚起され、もともと彼らが持っていた態度が極化されて表に出たものといえる。(本書)

「ヒューマニズムの力」を使う

 特定の人々に対してステレオタイプな像が描かれることは、私たちの周辺でもしばしば見られる。
「知性が低く、原始的で、不誠実で狂気に満ちており、保守主義者、暴力的」――これは、テルアビブ大学のバル・タル教授が調べた、ユダヤ人が持つパレスチナ人のステレオタイプだというが、どこか既視感をおぼえるのは筆者だけではないはずだ。
 社会を被害者と加害者に分断し、こうした言葉で「加害者」の像を描いて、彼らがいかに非人間的で邪悪なたくらみを抱き、善良な人々がいかに理不尽を被っているかを巧みに物語るナラティブな言説は、日本の言論空間にも飛び交っているのではないだろうか。
「日本人」とか「市民」などという言葉で自分たちを内集団化し、〝邪悪な外集団〟の排除や打倒を呼びかける言葉には、「歪んだ正義」を発動させるマジックが仕掛けられていることを忘れてはならない。
 著者は本書の終盤で、こうした過激化をいかに防ぐかに紙幅を割いている。
 たとえば、過激化の道から離脱できた人が自分の体験を語ること。ナラティブにはナラティブで対抗するのだ。
 さらに著者が力説するのは、「ヒューマニズムの力を使う」ことである。
 テロや戦争で人が暴力の行使を正当化できる背景には、対象を〝非人間化〟する視線がある。また紛争の背景には、対立する双方が相手の問題行動をすべて「彼らの本質」に帰結させ、そうした本質は「決して変わらない」と思い込む思考があるという。
 つまり、過激化を抑止するためには、対立する相手や集団もまた同じ人間だと認識すること。人は多面的であり、変わり得るのだという思想が重要になる。
 そのためにも思考の偏りを是正し、それまでとらわれていた見方を変える情報が不可欠だ。過激化抑止はジャーナリズムの重要な仕事の一つだと著者は記す。

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