連載エッセー「本の楽園」 第102回 ミンジュン・アート

作家
村上政彦

 韓国でもっとも有名なアートは何だろうか?
 僕は韓国・ソウルの在韓日本大使館の前に据えられた「少女像」だとおもう。韓国人はもちろん、日本人の多くが知っている。その姿は、欧米にも伝わった。
 このようなアートを、韓国では、民衆美術(ミンジュン・アート)と呼んでいる。それは――

一九八〇年代、韓国の反独裁民主化運動と呼応して生まれた美術運動であり、独裁政権の継続および急速な産業化・社会構造の変化によって顕在化した政治的抑圧と社会的矛盾を、「歴史の主体は民衆である」という立場から表現しようとしたリアリズム美術(『韓国の民衆芸術』より)

 つまり、民衆美術とは、極めて政治と関わりの深いアートなのだ。そのせいか、韓国国内でも長くアートとしては冷遇されてきた。正当に評価をされるようになったのは、1990年代になって民主政権が誕生してからだという。
『韓国の民衆芸術』は、そのようなアートが生まれた時代・社会の背景から、民衆芸術の歴史、具体的な作家の紹介、現在の動向まで、民衆芸術について解き明かしている。一読の印象をいうと、すごくおもしろかった。
 韓国は、1960~70年代まで朴正煕(パク・チョンヒ)を頂点とした軍事独裁政権が続いた。そのなかから民主化運動が起こり、アートの世界でも変革が起こった。民主化を後押しする表現が生まれたのだ。
 それまでの韓国のアートの世界を見渡すと、日本統治という政治的な現実の影響を受けて、欧米のモダニズムやそれを受け入れた日本式のスタイルが主流だった。それを民衆芸術は拒んだ。
 彼らは、植民地支配によって壊された朝鮮民族の伝統文化を復活させ、自前の表現によって、独裁政権と対峙した。それは、朝鮮民族のアイデンティティーの再構築と、アートによる現実の変革というテーマを孕んでいた。
 文学の世界では、金芝河(キム・ジハ)がいた。彼は、朝鮮の古典的な民衆劇・パンソリの手法を取り入れて、痛烈な風刺詩を詠み、独裁政権を笑いのめし、投獄される。それだけ権力の側にいる者らは、金芝河の射た言葉の矢が痛かったのだ。

真の芸術は躍動する現実の具体的な反映態として結実し、矛盾に満ちた現実の挑戦を受けてそれと対決する弾力性のある応戦力によってのみ、収奪される果実である。(金芝河「現実同人第一宣言」1969年)

 この宣言が民衆芸術の原点となった。民衆芸術の一つのエポックは、80年の光州事件だろう。民主化の機運が大きく盛り上がるなか、独裁政権は戒厳令を敷いて、多くの市民や学生を殺傷した。
 この事件によって、民衆は現実を変革する主体であるばかりか、文学・芸術を創造する主体であるという意識も生まれた。彼らは、みずから版画を制作し、光州市街のいたるところに貼り出した。当局者は、「ポルテノム(蜂の群れ)」と呼んで警戒したという。
 政治と文学・芸術の関わりというと、すぐに思い出すのが、ソ連の社会主義リアリズムだ。労働者の充実した姿や生活を描くのが理想で、文学・芸術の様式美などを追求する作品は「退廃」として退けられた。
 しかし、この社会主義リアリズムが上から強制した美学とすると、民衆芸術は下から盛り上がった美学だった。ただし、表現がリアリズムであり、分かりやすさを重んじるところは共通する。
 そこで、民衆芸術のなかでも、単に政治に従属するプロパガンダではいけない、と考える作家たちも現れた。本書の文脈でいうと、「政治主義」か「文化主義」か、という葛藤を超克する立場だ。それは「メディアの武器論」と呼ばれた。

美術が備えているメディアとしての機能を主張し、変革運動の武器として能動的に美術というメディアを運用していくという考え方である。

 高い文学性、高い芸術性を持ちながら、政治的な実効性を備えた作品というべきだろうか。著者は、「政治的想像力」という金芝河の言葉を引いて主張する。

政治的想像力にこそ、韓国の社会変革運動と民衆文化運動――政治と芸術を融合させつつ、もうひとつの統合的な創造性をつむぎだしえた力の源が潜んでいる

 金芝河は、民主化運動の根源にある民衆の生と死を見つめ、時代の底流にある、

人間の心に宿る自由を脅かすものへの根源的な抵抗、生命の根っこから立ち上がってくる抗いへの身ぶり

を表現した。そして、民衆芸術も、そうだったという。

政治と芸術という相矛盾するものを分離させるのではなく、矛盾のまま、民衆の無意識の層から滲み出る情動とともにつかみとり、そこに想像力を働かせる創造的な営み

民衆芸術とは、内発的な想像力をとおして、生命体としての、人間の根源的な抵抗の欲求を発信しようとした政治的想像力の具現のひとつだととらえ直すとき、その表現は新たな様相で再び立ち現れる

 ここから著者は、さらに考察を進める。表現者たちは、

万物のルールと人間のあり様を認知する手がかりとして、足元の東アジアの神話を探った

東アジアの神話に潜む文化的原型をつむぎ表現することで、おのずと宇宙の理法にかなう人間本来のルールが示される

東アジアに住まう自分たち、私たち人間にとっての万物自然の原理、あるいは宇宙の理法とは何だったのか。このことを現実の政治と相対的な関係としてとらえ、美術をとおして表現しようとしたのが、民衆美術だったのではないだろうか

 民衆芸術が、朝鮮の民族文化を再構築したことの意味のひとつは、恐らくここにあるのだろう。

民衆美術は東アジアの美学への大きな希望と可能性を示してくれている

 いやー、アジアの物語作家を自任する僕としては、久し振りに刺激的な本と出会った。これは再読の価値がある。

お勧めの本:
『韓国の民衆芸術』(古川美佳著/岩波書店)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。