本の楽園」タグアーカイブ

連載エッセー「本の楽園」 第77回 人の物語

作家
村上政彦

 フィリピンのマニラにある橋の下で、著者の「私」はメルセディータと出会う。彼女はそこに家を構えて暮らしていた。橋の下で暮らしているのは100家族ほど。電気は違法に引いていたが、電力会社に止められ、ろうそくの炎が唯一の家の中の灯だ。
 もともと「私」は教師をしながら、貧困層の人々を支援するボランティアに携わっていた。あるときからフルタイムのボランティアになった。メルセディータと出会って、彼女の半生を記録し始める。

 メルセディータ・ビリャル・ディアス=メンデスは、1965年に生まれた。両親は農場で働いていた。6人きょうだいの末っ子だった。貧しい暮らしで、おもちゃがひとつもなかった。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第76回 家族の光

作家
村上政彦

 家族新聞をつくっているという話を、たまに聞くことがある。実際、僕の知人は2人の子供が小学生のとき、父母も加わって新聞を製作していた。記事の一部を読ませてもらったことがあるが、母親のダイエットが失敗する逸話などがあって、とても微笑ましかった。
 こういう営みが家族の絆を強くすることは推測できる。どの家庭でもそういうことをすれば、家族の心のすれ違いなどは、最小限にすることができるのではないか、とおもうが、なかなか実行するのは難しい。
 今回、取り上げる『詩集「三人」』は、家族詩集の試みだ。詩を寄せたのは、金子光晴、妻の森美千代、息子の森乾の、文字通り3人。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第75回 我的日本語

作家
村上政彦

 リービ英雄さんとは、文芸家協会でときどき顔を合わせる。最初にお眼にかかったとき、「村上政彦です」と名刺を出したら、「お名前は、よく存じ上げております」と丁寧な日本語で返されて驚いた。
 彼は、北米で生まれ育ったアメリカ人だ。17歳で日本語と出会って、大学で『万葉集』を学び、それを英訳して、北米でもっとも権威のある全米図書賞を受けた。その後、日本語で小説を書くようになり、作品は高く評価されている。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第74回 片的なものの社会学

作家
村上政彦

 岸政彦の名は、なんとなく知っていた。小説の作者としてだ。『断片的なものの社会学』という本が話題になって、手に取ってみたら、彼の本業が社会学者であると分かった。じっくり読んでみて、これは小説にとって手強い相手が現れたとおもった。
 本書は社会学の本だ。岸が生活史の聞き取り調査の現場で体験したことがしるされている。体系的な著作ではない。まさに「断片的なもの」が満ちている。冒頭でこんなエピソードが紹介される。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第73回 こころ傷んで

作家
村上政彦

僕は小説家を志す前から人物観察が好きだった。たとえばデパートや駅の構内など、人がたくさんいるところへ出かけて行って、何をするわけでもなく、ただ、そこにいる人々を眺めている。
お年寄りがいる。子供がいる。会社員らしい男性がいる。買い物をしている婦人がいる。そういう人々を見ていると、どこからか物語が立ち上がってくる。この人は、こんな家に住んでいて、こんな家族がいて、こんな生活を送っている。本当は、そんなこと分かるはずもないのだが、何となく想像できる気がする。
それを想像してどうするわけでもない。ただ、そこにいる人物を観察して、背後にある物語を愉しむ。僕は大きな書店へ行くと、そこで何時間でも過ごすことができるが、人物観察も同じだった。つまり、僕は人という本を読んでいたのだ。 続きを読む