連載エッセー「本の楽園」 第76回 家族の光

作家
村上政彦

 家族新聞をつくっているという話を、たまに聞くことがある。実際、僕の知人は2人の子供が小学生のとき、父母も加わって新聞を製作していた。記事の一部を読ませてもらったことがあるが、母親のダイエットが失敗する逸話などがあって、とても微笑ましかった。
 こういう営みが家族の絆を強くすることは推測できる。どの家庭でもそういうことをすれば、家族の心のすれ違いなどは、最小限にすることができるのではないか、とおもうが、なかなか実行するのは難しい。
 今回、取り上げる『詩集「三人」』は、家族詩集の試みだ。詩を寄せたのは、金子光晴、妻の森美千代、息子の森乾の、文字通り3人。

 金子光晴はよく知られた詩人だが、知らない人のために短く紹介すると、第二次大戦前から反戦・抵抗の詩を綴った詩人で、戦時中は、いわゆる「干された」状態にあったが、戦後になって注目され、評価が定まった。
 森美千代は、作家としても活躍していて、金子光晴の収入のない時代は、彼女が生計を支えていたらしい。乾は、両親の影響で文章を書くようになり、のちに早稲田の教授を務める。
 金子光晴も、森美千代も、恋多き人で、それぞれ別の人に心を惹かれ、結婚・離婚を何度も繰り返し、最終的に元の鞘に収まる。そんな家族が編んだ詩集は、どのようなものだろう。
 干されていた戦時中、金子光晴は発表の当てもない詩をノートに書き続けた。戦火を逃れるため、弟子に写本を作らせていて、それは通称『疎開詩集』と呼ばれる。著者は跋文(ばつぶん)に、こうしたためた。

 主として戦争中に作られた詩編をあつめたもの。この時代の困難のために、この詩集は日のめをみないだらう。詩集は朽ちるかもしれない。しかし、詩集にある魂はくちないだらう。それは作者の天稟のたまではなくて、この魂は人間がみな抱いてゐる真実だからだ。いつかまた人は自分をふりかへる時がくるだらう。それはもはや文学だけの問題ではない。

 知人の編集者が逮捕され、空襲がひどくなり、「この戦争では犠牲になりたくない」とおもった金子光晴は、1944年12月に美千代と乾を伴って、山梨県山中湖畔の旅館へ逃れた。家族は、ここで1年4カ月を過ごすことになる。
『詩集「三人」』は、無記名の詩=金子光晴、チャコ作=美千代、ボコ作=乾の詩が並んでいる。B6判の200ページ。すべて金子光晴の手書き。きちんと装本もしてある。彼らがどのような思いで詩を書いたか。少し引いておきたい。

 おもひでの唄
 
 母はボコを抱いてゐた。
 甘い乳のにほひと、
 ぬれた薔薇の柔らかさ。
 父はそれを抱きとつた。

 蒼空のなかに
 ボコをさし上げれば、
 天使がきてすぐ、
 それを抱きとつた。

 父は破れた丹前(どてら)の
 ふところのなかに入れて歩いた。
 ボコはそこで
 すやすやと眠つた。

 父と母の貧乏も、
 愛の苦渋も、
 ボコにはよそごとだつた。
 父と母があるならば。

 ここには、聖家族とでもいいたくなるような、家族の光がある。
 幸い、家族は戦争の犠牲にならなかった。敗戦後の日本で、また家族としての営みを続けた。ちなみに、この詩集は、私家版として1冊だけ手作りされたもので、あるとき古書市で発見されたのだという。それも家族の光がもたらした偶然ではないだろうか。

参考文献:
『詩集「三人」』(金子光晴・森美千代・森乾著/講談社文芸文庫)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。