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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第61回 正修止観章㉑

[3]「2. 広く解す」⑲

(9)十乗観法を明かす⑧

 ③不可思議境とは何か(6)

(4)十如是——類に随いて釈す②

 十如是を、三悪(地獄・餓鬼・畜生)、三善(阿修羅・人・天)、二乗(声聞・縁覚)、菩薩・仏の四つのグループに分けるうち、第四の菩薩・仏の十如是については、『摩訶止観』巻第五上に、

 縁因を相と為し、了因を性と為し、正因を体と為し、四弘を力と為し、六度万行を作と作し、智慧荘厳を因と為し、福徳荘厳を縁と為し、三菩提を果と為し、大涅槃を報と為す、云云。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、572頁)

と述べている。縁因仏性を相とし、了因仏性を性とし、正因仏性を体とし、四弘誓願を力とし、六度(六波羅蜜)を根本とするすべての行を作とし、智慧による荘厳を因とし、福徳による荘厳を縁とし、正しい覚りを果とし、大涅槃を報とするといわれる。ここには、いわゆる三因仏性が出ている。正因は理、了因は理を照らす智、縁因は智の補助となる善行をそれぞれ指す。
 以上、四つのグループにおける十如是を説明した。『摩訶止観』には、追加の説明として、因・縁に逆と順があるとして、界内の生死に順じる場合、有漏の業を因とし、愛・取などを縁とすること、界内の生死に逆らう場合は、無漏の正慧を因とし、行行(助行)を縁とすることが示され、いずれの場合も分段の生死を滅すると述べられている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第60回 正修止観章⑳

[3]「2. 広く解す」⑱

(9)十乗観法を明かす⑦

 ③不思議境とは何か(5)

(3)十如是——総じて釈す③

 第七に「如是縁」については、「如是縁とは、縁は縁由(えんゆ)に名づく。業を助くるは、皆な是れ縁の義なり。無明・愛等は、能く業を潤す。即ち心を縁と為すなり」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。縁は「縁由」、つまり物事の由来、理由という意味である。業=因を助けることは縁の意味である。無明、渇愛などは、業を潤す(草花に水を与えて果実を実らせるように、業に影響を与えて苦果を生み出すこと)ことができるので、心を縁とするといわれる。
 第八に「如是果」については、「如是果とは、剋獲(こくぎゃく)を果と為す。習因は前に習続し、習果は後に剋獲す。故に如是果と言うなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。獲得することを果とするといわれる。習因は前において重なり続き、習果は後において獲得されるので、如是果というのであるといわれる。習因・習果については、 因果関係において、因が善ならば果も善、因が悪ならば果も悪、因が無記ならば果も無記である場合、因を習因(新訳では同類因)、果を習果(新訳では等流果)という。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第59回 正修止観章⑲

[3]「2. 広く解す」⑰

(9)十乗観法を明かす⑥

 ③不可思議境とは何か(4)

(3)十如是——総じて釈す②

 第二に、「如是性」については、

 性は以て内に拠る。総じて三義有り。一に不改を性と名づく。『無行経』に「不動性」と称す。性は即ち不改の義なり。又た、性は性分と名づく。種類の義は、分分同じからず、各各改む可からず。又た、性は是れ実性なり。実性は即ち理性なり。極実にして過無きは、即ち仏性の異名なるのみ……心も亦た是の如く、一切の五陰の性を具し、見る可からずと雖も、無と言うことを得ず、智眼を以て観ずるに、一切の性を具す」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、566頁)。

 性は事物の内側を拠り所としていると解釈し、事物の外側を拠り所とすると解釈した「相」との対比を際立てている。この性に三つの意義があるとする。第一には、「不改」、つまり変化しないことを意味している。『諸法無行経』では「不動の性」と呼んでいるといっているが、実際には「不動の相」は頻出するが、「不動の性」は見られない。
 性の第二の意味は、「性分」、つまり生まれつきの性質に名づけたものである。これは「種類」という意義ともいわれている。それぞれの持ち前が異なっており、それぞれ変化させることができないということである。「種類」は、他と区別され、あるまとまりを持ったものの集まりを意味する。性の第二の意味として、「性分」(生まれつきの性質は当然人によって異なる)を取りあげ、それを「種類の義」といっている。次下に出る「種性」も生まれつきの性質の意であるが、この第二の意味である種類としての性を指すものであろう。仏教用語としては、種姓と同じくゴートラ(gotra.血統、家柄などの意)の漢訳語として使われる。また、修行者の素質を意味し、経論によって種々に分類される。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第58回 正修止観章⑱

[3]「2. 広く解す」⑯

(9)十乗観法を明かす⑤

 ③不思議境とは何か(3)

 前回に引き続き、「十乗観法を明かす」のなかの「観不可思議境」についての説明を続ける。前回は、不可思議境である一念三千説を構成する、法界、三世間について説明した。今回は、十如是について説明する。

(3)十如是——総じて釈す①

 最初に、十法界の五陰世間における十如是を説明する。冒頭に、

 又た、十種の五陰は、一一各おの十法を具す。謂わく、如是相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等なり。先ず総じて釈し、後に類に随って釈す。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、564頁)

 この引用文に出ている十如是は、いうまでもなく『法華経』方便品の「仏の成就する所は第一の希有なる難解の法にして、唯だ仏と仏とのみ乃(いま)し能く諸法の実相を究尽す。謂う所は、諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(大正9、5下10~13)に基づくものである。仏だけが諸法の実相(智顗においては、あらゆる存在の真実ありのままの様相の意)を究め尽くすといわれ、その実相の存在のあり方として十の範疇を示しているのである。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第57回 正修止観章⑰

[3]「2. 広く解す」⑮

(9)十乗観法を明かす④

 ③不可思議境とは何か(2)

(2)三世間
 法界の次に、三世間(※1)の説明が示される。冒頭には、次のような説明が示される。

 十法界は通じて陰・入・界と称すれども、其の実は同じからず。三途は是れ有漏の悪の陰・界・入、三善は是れ有漏の善の陰・界・入、二乗は是れ無漏の陰・界・入、菩薩は是れ亦有漏亦無漏の陰・界・入、仏は是れ非有漏非無漏の陰・界・入なり。『釈論』に、「法の無上なる者は、涅槃是れなり」と云うは、即ち非有漏非無漏の法なり。『無量義経』に「仏は諸の大・陰・界・入無し」と云うは、前の九の陰・界・入無きなり。今有りと言うは、涅槃常住の陰・界・入有るなり。『大経』に云わく、「無常の色を滅するに因って、常の色を獲得す。受・想・行・識も亦復た是の如し」と。常楽重沓するは、即ち積聚の義にして、慈悲もて覆蓋するは、即ち陰の義なり。十種の陰・界は同じからざるを以ての故に、故(ことさら)に五陰世間と名づく。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、560-562頁)

 ここでは、十法界について、共通に[五]陰・[十二]入・[十八]界と呼ぶが、その内実は異なるとしている。ここでは、説明として、五陰単独ではなく、十八界、十二入と並べて取りあげているが、説明を単純化するために、五陰のみを取りあげて説明することにする。 続きを読む