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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第56回 正修止観章⑯

[3]「2. 広く解す」⑭

(9)十乗観法を明かす③

 ②思議境とは何か(2)

 ところで、ここに十法界の区別の根拠が示されていることが見て取れるであろう。それは衆生が諸法(自己を含むすべての存在)をどのように見るかによるといわれる。つまり、諸法を有(永遠不変に実在する固定的実体)と見ると六道となり、空(固定的実体のないこと)と見ると声聞・縁覚となり、仮(固定的実体はないが、諸原因・条件に依存して仮りの存在として成立していること)と見ると菩薩となり、中道(空と仮のどちらか一方に偏[かたよ]らず、両者を正しく統合すること)と見ると仏となると説明されている。
 ここでは、「見る」といっているが、「見る」ことは衆生の一切の行為を集約して表現したものであり、ただ単に「見る」だけにとどまるものではない。衆生の生き方全体が「見る」ことに深く関わっているのである。たとえば、六道の衆生は諸法を有としか見ることはできないし、また有と見ることにおいて六道の衆生のあり方が成立しているのである。有と見ることは、対象が永遠不変に実在するものと捉え、その対象に必然的に執著することを意味する。そこで、六道の衆生のあり方が成立するのである。六道の衆生は煩悩に駆り立てられて対象に執著するが、彼らは対象を有と見ているのである。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第55回 正修止観章⑮

[3]「2. 広く解す」⑬

(9)十乗観法を明かす②

①十乗を広く解す

 前回に引き続き、「十乗観法を明かす」についての説明を続ける。あらためて、この段の科文を掲げると、下記の通りである。

7.2812 十乗観法を明かす(52b-101c)
7.28121 正しく十観を明かす(52b-101b)
7.281211 端座して陰・入を観ず(52b-100b)
7.2812111 初めに法(52b-100a)
7.28121111 十乗を広く解す(52b-100a)
7.281211111 観不可思議境(52b-55c)

 
 今回は「十乗を広く解す」・「観不可思議境」の段である。つまり、十乗観法のなかの第一「観不可思議境」について説明する。すでに十境の第一「陰入界を観ずること」は、心を観ずること、すなわち観心に切り詰められることを述べた。この段の冒頭には、次のように述べられている。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第54回 正修止観章⑭

[3]「2. 広く解す」⑫

(9)十乗観法を明かす①

 このように、『摩訶止観』の陰入界境は心に集約されることになるので、心を観察すること、つまり観心という言葉がしばしば使用される。
 さて、この段の構成について簡潔に説明する。十境の第一の陰入界境に対して、十乗観法を修行するのであるが、全体は、「正しく十観を明かす」と「喩を以て修を勧む」(巻第七下)の二段に分けられる。「正しく十観を明かす」段が主要な部分であるが、この段はさらに「端坐して陰・入を観ず」と「歴縁対境」(巻第七下)の二段に分かれる。そして、「端坐して陰入を観ず」は、「初めに法」と「大車の譬え」(巻第七下)の二段に分かれる。「初めに法」は、「十乗を広く解す」と「総結して示す」(巻第七下)の二段に分けられる。この「十乗を広く解す」の段に、十乗観法が説かれるのである。下に図示する。番号は、第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)と同じものを使う。52b-101cなどは、『大正新脩大蔵経』巻第46巻の頁・段を示すので、これによっておおよその分量を見て取れる。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第53回 正修止観章⑬

[3]「2. 広く解す」⑪

(8)陰入境を観ず・入境を明かす③

 『摩訶止観』は、大道(大乗)の覚りの困難さをいうために、常見の人は異念(複数の念)によって煩悩を断ち切ると説き、断見の人は一念によって煩悩を断ち切ると説くという『大集経』を引用している(※1)。そして、このような中道に合致しないあり方を批判して、次のように述べている。

 皆な二辺に堕して、中道に会せず。況んや仏の世を去りて後、人根は転(うた)た鈍にして、名を執し諍いを起こし、互相(たが)いに是非して、悉ごとく邪見に堕す。故に龍樹は、五陰の一異・同時前後を破すること、皆な炎・幻・響・化の如く、悉ごとく得可からざるに、寧(いずく)んぞ更に王・数の同時・異時に執せんや。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、552頁)

と。常見と断見はどちらも二辺(二つの極端)に堕落し中道に合致しないと批判される。仏が世を去って後、人々の能力はますます鈍くなって、概念に執著して争いを生じ、たがいに非難し、すべて邪見に堕落することを指摘している。そこで、龍樹は、五陰の一・異、同時・前後を破折したとされる。『輔行』巻第五之二では、「一異」と「同時前後」を同じ意味に解し、「一とは、『毘曇』の王と数と同時なるを謂う。異とは、『成論』の王と数と前後するを謂う」(大正46、291上10~11)と解釈している。要するに、「一」と「同時」は、前に説明した心王と心作用が同時に生起する立場を指し、「異」と「前後」は、心王と心作用が前後して生起する立場を指すと解釈している。五陰はすべて炎、幻、響、化(幻術師によって作り出されたもの)のようなもので、すべて実体として捉えることはできないのであるから、あらためて心王と心作用が同時であるか異時(前後があること)であるかに執著することはできないと述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第52回 正修止観章⑫

[3]「2. 広く解す」⑩

(8)陰入境を観ず・入境を明かす②

 「陰入境を観ず」・「入境を明かす」(※1)の段落の続きである。今回の範囲では、まず九種の五陰を取りあげている。『摩訶止観』巻第五上には、

 一期(いちご)の色心を果報の五陰と名づく。平平(びょうびょう)の想受は、無記の五陰なり。見を起こし愛を起こすは、両(ふた)つの汚穢(おえ)の五陰なり。身口の業を動ずるは、善悪の両つの五陰なり。変化示現は、工巧(くぎょう)の五陰なり。五善根の人は、方便の五陰なり。四果を証するは、無漏の五陰なり。是の如き種種は、源は心従り出ず。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、550頁)

と述べている。これは、『大乗義章』巻第八、「次に三性に就いて、五陰を分別す。三性と言うとは、所謂る善・悪・無記性なり。『毘曇』の如きに依るに、陰に別して九有り。相従して三と為す。言う所の九とは、一に生得の善陰なり。二に方便の善陰なり。三に無漏の善陰なり。四に不善の五陰なり。五に穢汚(えお)の五陰なり。六に報生の五陰なり。七に威儀の五陰なり。八に工巧の五陰なり。九に変化の五陰なり(底本の注記の校異によって「九変化五陰」を補う)」(大正44、 623下6~11)とほぼ共通である。 続きを読む