第16回 釈名(1)
前回までで、十広の第一章「大意」(発大心・修大行・感大果・裂大網・帰大処の五略)の説明が終わった。今回は、『摩訶止観』巻第三上から始まる、十広の第二章「釈名(しゃくみょう)」の章を紹介する。この章は、相待(そうだい)止観、絶待(ぜつだい)止観、会異(えい。多くの経典に説かれる止観の別名についての説明)、三徳に通ず(止観と法身・般若・解脱の三徳との関係の説明)の四段に分かれる。 続きを読む
前回までで、十広の第一章「大意」(発大心・修大行・感大果・裂大網・帰大処の五略)の説明が終わった。今回は、『摩訶止観』巻第三上から始まる、十広の第二章「釈名(しゃくみょう)」の章を紹介する。この章は、相待(そうだい)止観、絶待(ぜつだい)止観、会異(えい。多くの経典に説かれる止観の別名についての説明)、三徳に通ず(止観と法身・般若・解脱の三徳との関係の説明)の四段に分かれる。 続きを読む
五略の第三の感大果には、
第三に菩薩の清浄なる大果報を明かさんが為めの故に、是の止観を説くとは、若し行は中道に違せば、即ち二辺の果報有り。若し行は中道に順ぜば、即ち勝妙の果報有り。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)224頁)
と述べられてる。これは、十広の第八の果報に対応する段であるが、果報は実際には説かれない。ここでは、修行が中道に背くならば、空と仮の二つの極端な果報があり、もし修行が中道に従うならば、すぐれた果報があることを示している。
さらに、『次第禅門』に明らかにされる修証(修行と証得)とこの果報との相違についての質問がある。「修」という原因と、それによって得られる「証」という結果は、習因・習果(因果関係において、因が善ならば果も善、因が悪ならば果も悪、因が無記ならば果も無記である場合、因を習因[新訳では同類因]、果を習果[新訳では等流果]という)という関係であること、またこのような修と証は今生で得られるものであるが、果報は今世と隔てられた来世にあると説かれる。新田雅章氏は、来世の果報とは、天台の国土観である四土(凡聖同居土・方便有餘土・実報無障礙土・常寂光土)に生まれることを指すのではないかと解釈している(※1)。 続きを読む
②悪に焦点あわせる
悪を論じるにあたり、六蔽を悪としている。六蔽は、六波羅蜜を妨げる六種の悪心のことで、慳心(貪欲)・破戒心・瞋恚心・懈怠心・乱心・癡心をいう。これに対して、六波羅蜜が善と規定される。しかし、これは一応の定義であり、善と悪は相対的なものであることを説いている。たとえば、二乗が苦を脱却することは善であるが、自利のみの立場に制限されているので、慈悲に依って広く衆生を救済する蔵教の菩薩に比較すると悪となると説かれる。このような比較によって善悪の相対性が示されるのであるが、結局は円教のみが善と規定されて、次のように説かれる。 続きを読む
前回は、非行非坐三昧についての説明の途中で終わった。非行非坐三昧は、諸の経に約す・諸の善に約す・諸の悪に約す・諸の無記(善でも悪でもない性質のもの)に約すという四段落から成る。今回は、後の三段である善・悪・無記の三性の日常心を対境として止観を行ずる段について説明する。智顗(ちぎ)は、かなりの紙数を割いて、この段を説明しているが、議論が複雑で難解な点も多い。 続きを読む
前回までで第一章の大意の中の第一の発大心の説明が終わった。次に第二の修大行を説明する。
ここでは、常坐、常行、半行半坐、非行非坐の四種三昧(※1)を説いている。これらの名称は、修行の際の身体の形態(身儀)に基づいたものであり、内容的には、順にそれぞれ一行三昧、仏立三昧、方等三昧・法華三昧、随自意三昧と呼ばれる。『摩訶止観』では、それぞれの三昧について、身の開・遮(許可と禁止)、口の説・黙(説法と沈黙)、意の止・観(止と観)という具体的な修行の方法を示し、さらに、修行を勧める段が設けられている。
人間の行為全般を、仏教では行・住・坐・臥の四種に分けることがある。行は歩むこと、住は立ち止まること、坐は座ること、臥は横になることである。このなかで、四種三昧は、行と坐を選んでいる。坐は坐禅に相当する。行はたとえば仏像の周囲を歩むことを意味する。この坐と行を折衷したものが半行半坐であり、坐と行に限定されない、その他のあらゆる日常の行為が非行非坐と呼ばれる。この四種三昧は、現在も日本天台宗の一部では修行されており、それについての報告も読むことができる(※2)。 続きを読む