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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第27回 偏円④

(5)権・実を明かす①

 この段は、釈名(しゃくみょう)と料簡の二段からなる。釈名の冒頭には、権実の意味と、権と実との関係について説いている。すなわち、

 五に権実を明かすとは、権は是れ権謀(ごんぼう)、暫(しばら)く用いて、還(ま)た廃す。実は是れ実録、究竟の旨帰(しき)なり。権を立つるに、略して三意と為す。一に実の為めに権を施す。二に権を開きて実を顕わす。三に権を廃して実を顕わす。『法華』の中の蓮華の三譬の如し、云云。諸仏は即ち一大事を以て出世す。元(も)と、円頓一実の止観の為めに、三権の止観を施すなり。権は本意に非ざれども、意も亦た権の外に在らず。秖(た)だ三権の止観を開きて、円頓一実の止観を顕わすなり。実の為めに権を施すに、実は今已に立てり。権を開きて実を顕わせば、権は即ち是れ実にして、権の論ず可きもの無し。是の故に、権を廃して実を顕わすに、権は廃して実は存す。暫く釈名を用うるに、其の義は允(まこと)と為す。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)354~356頁予定)(※1)

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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第26回 偏円③

(4)漸・頓を明かす②

(d)教・行・証の人と因果

 蔵教・通教の二教の止観は、因のなかには教・行・証の人がいるが、果には教だけがあって、行・証の人はいないとされる。その理由については、因のなかの人は、身を灰にして小乗の涅槃に入り、空に沈んですべて消滅し、果としての仏を成就することができないからであると説明されている。
 別教の場合も同様に、因のなかには教・行・証の人がいるが、果には行・証の人はいない。これは、先に述べた通り、別教において無明を破して初地の位に登るとき、この位はそのまま円教の初住の位となり、修行者は円教に進むからである。したがって、別教の果には、人(仏)がいないことになり、これを果頭無人(かずむにん)という。
 円教の場合は、因のなかの教・行・証の人は、すべて因から果に到達するので、果にも教・行・証の人がすべて備わるとされる。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第25回 偏円②

(3)偏・円を明かす

 十広の第五「偏・円」は五段に分けられているが、偏・円を明らかにする第三段では、偏という概念の範囲が広く、小乗から大乗までの広い範囲に適用されることを述べている。結論としては、三蔵教の析法(しゃくほう)の止観から別教の止観までをことごとく偏と規定し、円教の止観の一心三諦だけを随自意の語であるという理由から円とするのである。したがって、偏円の区別は、大小、半満(半字は小乗、満字は大乗をそれぞれ指す)の区別と一致しないので注意を要する。

(4)漸・頓を明かす①

 この段は、さらに細かく項を分けていないが、理解しやすいように、いくつかの項に分けて説明する。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第24回 偏円①

 次に、十広の第五章「偏円」について考察する。その冒頭には、

 第五に偏円を明かすとは、行人は既に止観は法として収めざること無きことを知れり。法を収むること既に多ければ、須(すべか)らく大・小、共・不共の意、権・実、思議・不思議の意を識るべし。故に偏・円を簡(えら)ぶ。此れに就いて五と為す。一に大・小を明かし、二に半・満を明かし、三に偏・円を明かし、四に漸・頓を明かし、五に権・実を明かす。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)335頁予定)(※1)

と述べられている。修行者は止観がすべての法を収めることを知った。法を収めることが多いからには、大・小、共・不共、権・実、思議・不思議の意味を認識する必要があるので、偏・円を区別するという内容である。これについて、大・小、半・満、偏・円、漸・頓、権・実の五つの組合せを明らかにする。
 第四章の標題には偏円とだけあるが、具体的には、大小、半満、偏円、漸頓、権実の五段によって、止観の区別を明らかにしている。区別を越える仏教の真理と、区別を説く五つの組合せとの関係については、

 夫(そ)れ至理(しり)は大ならず、小ならず、乃至、権に非ず、実に非ず。大・小、権・実は、皆な説く可からざるも、若し因縁有らば、大・小等は皆な説くことを得可し。小の方便力を以て五比丘の為めに小を説き、大の方便力を以て諸の菩薩の為めに大を説く。大・小は倶に方便なりと雖も、須らく所以(ゆえん)を識るべし。故に五双(ごそう)を用て料簡し、混濫(こんらん)すること無からしむ。(『摩訶止観』(Ⅱ)335~336頁予定)

と述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第23回 摂法②

(3)一切の智を摂す

 第三の「一切の智を摂す」の段は簡潔であり、その全文は以下の通りである。

 三に止観に一切智を摂すとは、諸智の離合は前に説く所の如く、三観もて往きて収むるに、畢(こと)ごとく尽きざること無し。世智は理を照らさざれども、十一智の中に已に摂す。若し広く二十智を明かさば、亦た三観の摂する所と為るなり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)317~318頁予定)(※1)

 諸智の離合については、第三章の止観の「体相」において説かれている。そこでは、一智、二智、三智、四智、乃至十一智等、種々の智の分類が説かれているが、いずれも三諦を観察することを明らかにしている。したがって、すべての智は三観に包摂されるのである。ここの引用文に出る十一智については、すでに「体相」の説明のなかで引用した(※2)が、引用文にあるように、世智は十一智のなかに含まれている。
 二十智については、「体相」の章には出なかったが、『法華玄義』巻第三上の「一世智、二五停心四念処智、三四善根智、四四果智、五支仏智、六六度智、七体法声聞智、八体法支仏智、九体法菩薩入真方便智、十体法菩薩出仮智、十一別教十信智、十二三十心智、十三十地智、十四三蔵仏智、十五通教仏智、十六別教仏智、十七円教五品弟子智、十八六根清浄智、十九初住至等覚智、二十妙覚智」(大正33、707上28-中6)を参照されたい。 続きを読む