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長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第17回 番外編②(シリーズ最終回) 長嶺将真の弟子群像

ジャーナリスト
柳原滋雄

草創期の主な弟子たち

 戦前、まだ庭先など屋外で稽古するのが普通だった空手の世界で、長嶺が泊(とまり、那覇市)に建てた屋内道場は当時としては珍しいものだった。戦後は牧志(まきし、同市)の仮道場で「松林流」の看板を初めて掲げ、1954年に久茂地(くもじ、同市)に戦後沖縄で初となる大規模な空手道場を開いた。
 終戦直後に師事した弟子たちの多くは戦前から稽古を共にした間柄だった。その筆頭格の一人が久志助恵(くし・じょけい 1909-1978)で、長嶺とは同じ那覇商業学校の同期生だった。沖縄角力(すもう)の名手で、新聞などへの執筆活動も行った。長嶺道場の「右腕」となった人物である。
 一方、「左腕」といえるは、古武道に優れていた喜屋武真栄(きゃん・しんえい 1912-1997)だ。久志と同じく、長嶺道場の脇士として長嶺を支えた。教職員組合のリーダーで、沖縄の本土復帰時には参議院議員に当選し、政治的にも活躍した。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第16回 番外編① 稲嶺惠一元知事に聞く

ジャーナリスト
柳原滋雄

 1998年から2006年まで2期8年にわたり沖縄県知事を務めた稲嶺惠一氏は、知事時代の1999年に2回目となる沖縄伝統空手道世界大会を開催し、2005年に「空手の日」を制定したことで知られる。父親の一郎氏は早稲田大学の学生時代、東京で船越義珍に師事した空手の有段者であり、稲嶺氏自身は空手をしなかったものの、沖縄県空手道連合会の第2代会長を務めた(知事選出馬のため任期途中で交代)。稲嶺氏は自身の政治回想録『我以外皆我が師――稲嶺惠一回顧録』(琉球新報社)で、「私は長嶺将真さんを尊敬していた」と記している。現在も「株式会社りゅうせき」(旧社名:琉球石油株式会社)の参与として仕事を続ける元知事に話を伺った。(取材・2020年10月) 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第15回(最終回) 空手の原点とは

ジャーナリスト
柳原滋雄

ハワイで行った平和講演

 1995年7月、笹川良一が96歳で死去。長嶺が「空手の琉球処分」(第11回第12回参照)に巻き込まれる原因をつくった人物の死は、沖縄空手にとって一つの時代を象徴する出来事だった。
 8月には、2年後に沖縄で初めて行なわれる空手の世界大会「沖縄空手・古武道世界大会」の「プレ大会」が開催された。組手の試合で南アフリカの選手が不幸にも死亡する事故が発生した。長嶺は9月15日付の琉球新報に「沖縄空手・古武道プレ大会事故に思う」と題する文章を掲載している。
 翌96年、沖縄県空手道連合会はアトランタオリンピックの公式行事として渡米し、仲里周五郎(なかざと・しゅうごろう 1920-2016)を中心に演武を行っている。さらにこの年の10月には最後の開催となった第8回「武芸祭」が開催された。
 また12月には、長嶺はハワイの超禅寺から招かれて、「沖縄の空手と世界平和」と題する講演を行っている。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第14回 沖縄空手界の再統一へ

ジャーナリスト
柳原滋雄

ゆるやかな統一組織「沖縄空手道懇話会」

 全沖縄空手道連盟から国体競技に参加するために分かれた沖縄県空手道連盟。1980年代の沖縄空手界は組織が完全に二分されていた。87年に開催された沖縄海邦国体の空手競技では、沖縄県は念願の全国優勝を果たしたものの、両連盟の関係者は、双方顔を合わせても口をきかないといった関係が続いていた。
 こうした時期に、このままではいけないと考えた新聞人がいた。『琉球新報』の記者として20年以上勤め、そのころ、広告局に異動し、イベントを担当するようになっていた濱川謙(1940-)である。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第13回 沖縄・海邦国体のドラマ

ジャーナリスト
柳原滋雄

全空連の対応の変化

 沖縄県空手道連盟(以下「県空連」)ができた後、国体競技に沖縄県が組織的に初めて参加したのは翌年の1982年の島根県で開催された「くにびき国体」(以下「島根国体」)だった。
 10月に行われた島根国体では、比嘉祐直の弟子が型の試合に出場したが、沖縄方式の型は認められないという理由で「失格」にされるハプニングが発生していた。
 長嶺将真は翌月、全日本空手道連盟(以下「全空連」)に対し、指定型についての意見書を改めて提出した。沖縄方式の型のままでを競技を認めてほしいという内容だったが、2カ月後に東京から戻ってきた返事は、長嶺らの嘆願を「拒否」する内容だった。 続きを読む