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長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第12回 空手の琉球処分(下)

ジャーナリスト
柳原滋雄

長嶺が方針転換した背景

 今から40年前の1981年8月、沖縄空手界は2つに分裂した。
 この年、空手が初めて国体の正式種目となり、滋賀国体(夏季)で組手と型の競技が行われた(同年9月)。6年後の87年にはその国体が沖縄に回ってくる。空手発祥の地・沖縄で開催される国体において、地元沖縄からだれも選手が出場しないという事態は、県政に関わる者からすればありえない選択だった。
 当時の県知事は西銘順治(にしめ・じゅんじ 1921-2001)。保守系で1期目の半ば。90年に革新系の大田昌秀(1925-2017)に敗れるまで、西銘は3期12年を務める。87年の沖縄海邦国体を開催する責任者となったのもこの西銘だった。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第11回 空手の琉球処分(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

2年前から始まった前史

 1979年4月、八木明徳(1912-2003)は「全沖縄空手道連盟」の第7代会長に就任した。
 沖縄空手の〝本流〟の組織として1956年に知花朝信(1885-1969)を中心に設立された「沖縄空手道連盟」はその後1967年に改組され、「全沖縄空手道連盟」と名称変更していた。その後の会長職(任期2年)は、ほぼ四天王(長嶺将真、比嘉祐直、上地完英、八木明徳)が持ち回りで担ってきたが、八木にとってはこのときが2度目の会長就任だった。
 それから2年後の1981年8月、沖縄空手界は長嶺将真(1907-1997)を中心に新設された「沖縄県空手道連盟」と、八木の残る「全沖縄」に真っ二つに分裂する。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第9回 実業家としての挫折

ジャーナリスト
柳原滋雄

2度の経営失敗

 1957年8月、長嶺将真はわずか8票差で瀬長亀次郎市長の信任を問う市議会選挙で敗れた。従来は長嶺票に数えられていた「ソシン」とだけ記載した票が10票ほどあって最後まで判定に悩んだというが、運悪くこのときの選挙には同じ名前の候補者がいたことでこの10票すべてが取り消しとなった。そんなハプニングで落選しながらも、それでも長嶺は意気消沈して動きを止めたわけでもなかった。
 実際、翌月下旬には、沖縄タイムス紙に沖縄空手道連盟の知花朝信会長と長嶺(副会長)の空手に関する対談記事が上下2回で掲載されている。
 さらに10月には長崎市で行われた琉球物産展示会で長嶺が空手演武団の団長を務めるなど、空手に取り組む意気込みは衰えていなかった。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第8回 那覇市議時代

ジャーナリスト
柳原滋雄

3足の草鞋

 1952年、長嶺が20年にわたる警察人生に区切りをつけたとき、これから空手に専念するとの思いとともに、仕事では実業家の道を考えていたと思われる。
 実際、翌年の元旦号の琉球新報には、沖縄第一倉庫が出した新年号広告に「専務」として長嶺の名が記載されている。当初は空手指導者と実業家の2つの活動で生計を立てるつもりだったと思われるが、人生のハプニングはすでに翌年生まれた。
 警察を辞めて1年後、多くの自治体で定数増に伴う臨時の議会選挙が行われることになったのだ。那覇市も定数を大幅に増やし、増加分の市議会議員を新たに選ぶ選挙が3月に行われ、長嶺も立候補し、当選した。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第7回 戦後の再出発

ジャーナリスト
柳原滋雄

最後の署内柔道大会

 焼け野原となった那覇に戻ってきてからの長嶺の仕事は、みなと村の管理だった。当時、那覇港から陸揚げされる物資の荷揚げ作業を国場組が一手に仕切っており、警察内部で長嶺に担当させようという声が出たという。殺しや盗みといった犯罪を扱う純粋な刑事警察より、経済警察のほうが長嶺の得意分野だった。
 みなと村を統括する警備派出所の責任者として仕事をした。敗戦国民である日本人の力は弱く、警察官であることがわかると身の危険があったため、警察官は制服を着用しないで勤務する時代だったという。
 このころ焼け野原となっていた那覇市で米軍による規格住宅づくりが推進された。長嶺家にも割り当てが回ってきた。住所は「牧志町2丁目」で、この住宅を少し改造して仮道場となし、そこで初めて「松林流」の看板を掲げた。長嶺の流派の始まりである。時に1947年7月のことだった。 続きを読む