長期展望に立って〝世界の文化財〟に資する取り組みを――書評『世界の読者に伝えるということ』

フリーライター
青山樹人

「世界文学」として読まれる村上春樹

「アジアの国々は日本や韓国などからさまざまな文化を〝輸入〟していますが、小説はそれほど〝輸入〟されていません」

 3月に開かれた東京国際文芸フェスティバルのトークセッションで、マレーシアの作家タッシュ・オー氏が語った言葉だ。
 自動車や家電製品をはじめ、Jポップや芸能コンテンツは広くアジア各国の庶民の中にまで浸透している。回転ずし、たこ焼、ラーメン、カレーライスといった日本の庶民の味もまた、若い層を中心にそれぞれの国の人々の日常に今やすっかり馴染んでいる。
 しかし、タッシュ・オー氏が指摘したように、それら「メイド・イン・ジャパン」と同様に日本の文学がアジアの人々の生活の中に浸透しているかといえば、ずいぶんと落差がある。韓国や中国、台湾などの限られた大都市の書店には村上春樹氏や東野圭吾氏らの作品が並んでいるものの、それら〝定番〟以外の文学の翻訳はまだまだ圧倒的に少ない。
 事情は、われわれ日本人の側も同じだ。たとえば韓国の食文化はすっかり日本でもお馴染みになり、Kポップや映画・ドラマは強い人気を保っている。韓国俳優への熱が高じて韓国語を習う人も珍しくない。
 それでも韓国の小説を読むという人は圧倒的に少ない。そもそも翻訳されたコンテンツが少ないということもあるのだが、やはり文学というのはそれほどに他の文化に比べて国境を越えて共有されることが容易でないものなのだ。

 だが、グローバル化の進展に伴って、もともと他の言語で書かれていた文学を読みたいと考える人が増えていると述べるのは、『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書)の著者・河野至恩氏だ。
 高校卒業後、米国の大学で比較文学・近代日本文学を学び、教鞭をとった経歴を持つ河野氏は、同書の中で自身が見聞した欧米での日本文学の〝読まれ方〟を踏まえながら、日本の文学を海外に伝えることには2つの視点がいると指摘する。
 1つは「世界文学」という視点だ。たとえば村上春樹氏の作品は海外40ヵ国以上で翻訳・出版されている。今や日本語版の村上作品は世界中に多言語で流通しているそれの一部に過ぎず、さまざまな言語に属する人が、世界の各地で、さまざまな言語による村上作品に出合っている。読者は、必ずしも日本そのものに関心があって村上作品を手にとるのではない。むしろ村上作品を読んだことで結果的に日本や日本人のことを知る人のほうが多いのかもしれない。
 河野氏は

<「日本」の文学ということを意識せずに、「世界中で書かれている文学作品のひとつ」として読む>

ことを「世界文学」のキーワードに挙げる。そして、21世紀の人文学では、個別の国や地域の枠内ではなく「世界」というスケールで歴史や文化を考える試みが始まっており、世界共有の「文化財」としての文学を考えることは、今後いよいよ重要になってくるというのだ。

文化の重層的な背景を伝えるものは〝文学〟

 もう1つの視点は「地域研究」、この場合は「日本研究」の一環として読まれる日本文学である。近年はアカデミズムの世界でも、マンガなど日本のポップカルチャーへの関心が入り口となって日本研究の門戸を叩く学生が増えているそうだ。そして河野氏の経験上、そうしたアニメファンの学生のほうが日本文学への理解においても熱心であり優秀である傾向が強いという。
 ただし、そのように日本への関心が高まっていることは事実だとしても、それを安易に「日本文化の特殊さ」に結び付けて解説しようとすることや、ましてや「だから日本文化の微妙なところは日本人にしかわからない」という議論にすり替えることの危うさを氏は指摘する。いたずらに日本を欧米とは異質な文化の国だと強調することは、

<今後日本が世界の国々と同じ土俵に立って、生産的な仕事をしていくのには不利益だと思うのだ>

というのだ。
 また、中長期的に重要なことは、各国に日本研究の充実した蓄積が生まれ人材が育っていくことであり、そこに必要なものをいかに届けていくかを考えなければならない。アニメやマンガといったコンテンツは所詮はビジネスであり、マーケットで売れるものが評価の高いものになる。それは学術的な評価とはおのずと意味が異なる。ビジネスの論理と学問の立ち位置の折り合いのつけ方には目を配っておく必要があるとも氏は指摘する。

 日本に特化した内容で中国で刊行されている月刊誌『知日』の編集長・蘇静氏は、大学に入る前までは反日感情を持っていたが、図書館で中国語訳された村上春樹を読破して日本への見方が変わったそうだ(『第三文明』3月号)。互いに価値観の異なる人々が共通の対話を成り立たせていく上で、「世界文学」としての文学作品を共有していくことの意味は小さくない。
 河野氏は、世界に向けて日本を〝発信〟していくという場合の〝発信〟には、送り手の意図があっても受け手が不在であり、送り手側の短期的な利益を求める発想が見え隠れすると指摘する。
 食文化やポップカルチャー、芸能コンテンツというものは、わかりやすくビジネス的な効果も見えやすい。しかし、そうした現象の奥にある蓄積を伝えるためには、たとえば文学のようなものでなければ担いきれないものがある。文化庁が進めていた現代日本文学の翻訳・出版事業は、もともと海外の出版社に売り込むエージェント的能力を欠いていたこともあって民主党政権下で事業仕分けの対象となった。
 中国や韓国は国家戦略に基づいて、海外における自国の文化研究の支援に力を注いでいる。日本にとっても、長いスパンに立って、日本文化の重層的な背景を世界と共有し、世界全体の文化に寄与していく作業は、むしろいよいよ重要になってくるはずなのだ。

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あおやま・しげと●東京都在住。雑誌や新聞紙への寄稿を中心に、ライターとして活動中。著書に『宗教は誰のものか』(鳳書院)など。