第15回 感大果・裂大網・帰大処
感大果
五略の第三の感大果には、
第三に菩薩の清浄なる大果報を明かさんが為めの故に、是の止観を説くとは、若し行は中道に違せば、即ち二辺の果報有り。若し行は中道に順ぜば、即ち勝妙の果報有り。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)224頁)
と述べられてる。これは、十広の第八の果報に対応する段であるが、果報は実際には説かれない。ここでは、修行が中道に背くならば、空と仮の二つの極端な果報があり、もし修行が中道に従うならば、すぐれた果報があることを示している。
さらに、『次第禅門』に明らかにされる修証(修行と証得)とこの果報との相違についての質問がある。「修」という原因と、それによって得られる「証」という結果は、習因・習果(因果関係において、因が善ならば果も善、因が悪ならば果も悪、因が無記ならば果も無記である場合、因を習因[新訳では同類因]、果を習果[新訳では等流果]という)という関係であること、またこのような修と証は今生で得られるものであるが、果報は今世と隔てられた来世にあると説かれる。新田雅章氏は、来世の果報とは、天台の国土観である四土(凡聖同居土・方便有餘土・実報無障礙土・常寂光土)に生まれることを指すのではないかと解釈している(※1)。 続きを読む