沖縄空手の学術研究を推進する沖縄県主催の1回目の「沖縄空手アカデミー」が開催されたのは昨年10月。全6回の予定で、すでに3回分が終了している。
1回目のテーマとなったのは「近世琉球の空手関連史料」で、空手の発祥に関わる史料がほとんど残されていない近世時代(=日本の江戸時代に相当)の史料について、沖縄県立博物館・美術館の田名真之(だな・まさゆき 1950-)館長が解説する興味深い内容となった。今回はその概要を紹介する。 続きを読む

沖縄空手の学術研究を推進する沖縄県主催の1回目の「沖縄空手アカデミー」が開催されたのは昨年10月。全6回の予定で、すでに3回分が終了している。
1回目のテーマとなったのは「近世琉球の空手関連史料」で、空手の発祥に関わる史料がほとんど残されていない近世時代(=日本の江戸時代に相当)の史料について、沖縄県立博物館・美術館の田名真之(だな・まさゆき 1950-)館長が解説する興味深い内容となった。今回はその概要を紹介する。 続きを読む
沖縄で個人から個人に秘かに伝えられてきた武術にほかならない空手。本来、それらの武術に流派という概念はなかったとされる。ところが一定程度、沖縄社会で認知されるようになると、2つの流派が言われるようになる。大きく分けて、昭林(しょうりん)流と昭霊(しょうれい)流の2派である。前者が現在のしょうりん流を意味し、後者が剛柔流系を意味すると言われている。
現在、沖縄空手を分別するのに使われる「首里手」「那覇手」という言い方も古くからあったものとはいえず、地元行政において区別する必要に応じて「首里手」「泊手」「那覇手」に分類されたと伝えられる。 続きを読む
戦後の日本本土で隆盛を極めたフルコンタクト空手の元祖・極真空手。実際にその歴史をたどれば、沖縄発祥の空手から枝分かれした一部にほかならない。その極真空手に人生の若いころに命を賭け、その後、源流である沖縄空手に価値を見出した空手家を何人か取り上げてきた(「極真から沖縄空手に魅せられた人びと」《第26回、第27回、第28回》参照)。この連載の最後にインタビューを行った剛毅會(ごうきかい)空手道の岩﨑達也宗師(いわさき・たつや 1969-)もその一人だ。取材の最初にクギを刺されたのは、「武術性があるかどうかが問題であって、自分にとってそれが沖縄空手でなければならないということではない。たまたま師事した(沖縄空手の)先生がものすごい武術性を持っていた」という言葉だった。沖縄空手の本質とは何なのか、インタビューを試みた。 続きを読む
最も初期に一般的に記録に残された空手に関する資料は、当時まだ沖縄の小学校教員であった船越義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)が1913(大正2)年に『琉球新報』紙上に発表した「唐手は武藝の骨髄なり」(1月9日付)と題する文章とされる。
そこで船越は、15世紀初めに琉球王朝が統一され、中央集権化が図られ武器をことごとく取り上げられたこと、さらに薩摩の琉球侵攻によって「ひどい目に逢わされた」結果、「無手勝流唐手の必要を痛切に感じ」、「護身用として唐手の練習をやらねばならぬ立場になったのであろう」と推測した。
ご存じのとおり、船越の師匠は、安里安恒(あさと・あんこう 1828-1914)と糸洲安恒(いとす・あんこう 1831-1915)の2人だが、その2人の口伝を取り入れた見解であったことは容易にうかがえる。 続きを読む
沖縄空手の歴史をきちんと筋道立てて説明している人は、今のところいないと考えています。これが決定版という空手の歴史に関する書籍はいまのところありません
中学校の体育教師として長年勤めた勝連盛豊さん
うるま市の喫茶店でそう語るのは、2017年に『検証 沖縄武術史 沖縄武技―空手』(沖縄文化社)を発刊した勝連盛豊(かつれん・せいほう 1947-)だ。
直接の空手経験はないものの、棒術の使い手で、そこから棒術の歴史の研究を始めたのが空手についても調べるようになったきっかけだったという。
30年に及ぶ研究成果は今年7月、『検証 沖縄の棒踊り』(同)として実を結んだ。その調査の中で実感したのが、空手がオリンピックの正式種目に採用される時代になったにもかかわらず、空手に関する正確な歴史がいまだにまとめられていないとの危機感だったという。 続きを読む