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沖縄伝統空手のいま 特別番外編③――沖縄の村棒(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

6尺棒を使った伝統芸能と武術

 2021年の東京オリンピックで正式種目になった空手――。その源流が沖縄にある事実はすでに広く知られるようになった。一方で、空手とともに、棒術をはじめとする古武道の存在もそれと類似している。
 古武道には棒やサイ、ヌンチャクなど複数の道具があるが、最も中心的なのはやはり棒(6尺=180センチほど)だ。もともと沖縄棒術の起源には、各地域で発達した「村棒(むらぼう)」の存在がある。
 それらは村のお祭りなどにおいて披露されるもので、「棒踊り」と呼ばれることがある。6尺棒や3尺棒を用いた「棒踊り」は沖縄県内だけでなく、現在の鹿児島県を中心に、宮崎県や熊本県など九州南部に伝わる。鹿児島県では田植えの時期に田植え歌に合わせてリズミカルに棒を打ち合う踊りが残っているものの、沖縄の棒踊りとはかなり色合いが異なると説明するのは『沖縄の棒踊り』(沖縄文化社、2019年)の著作をもつ勝連盛豊氏(かつれん・せいほう 1947-)だ。勝連氏によると、棒を使った沖縄に残る伝統芸能や武術は大きく3つに分けられるという。 続きを読む

沖縄伝統空手のいま 特別番外編② 沖縄県空手道連盟 4年ぶりの演武大会を開催

ジャーナリスト
柳原滋雄

団体組手で優勝した劉衛流龍鳳会

 2019年初頭にコロナ禍に突入して丸4年。沖縄県空手道連盟(以下、沖空連)が毎年行っていた演武会がことし4年ぶりに開催された(3回は中止)。2017年に県の肝煎りでつくられた沖縄空手会館(豊見城市)を会場に、およそ1000人の空手家が出場した。
 沖縄の空手団体は大きく4つあり、3つは沖縄伝統空手(沖縄古来の型を重視する団体)の組織だが、沖空連は全日本空手道連盟(全空連)の沖縄県支部組織として日本本土やオリンピックと共通する競技ルールでの試合に参加する団体だ。地元空手家の長嶺将真を中心に1981年に設立され、42年の歴史をもつ。
 沖縄県ではコロナ禍の最中ではあったが昨年8月に「第2回沖縄空手世界大会」と「第1回沖縄空手少年少女世界大会」を開催。同年11月には県が制定した「10月25日 空手の日」にちなむ記念演武祭も開催された。こうした経緯の上で、先日3月5日、沖空連主催で第38回「沖縄県空手道古武道演武会」が開催された。 続きを読む

沖縄伝統空手のいま 特別番外編① 上地流「拳聖 新城清優」顕彰碑・除幕式

ジャーナリスト
柳原滋雄

最晩年の上地完文を支えた新城一家

 現在、沖縄空手の三大流派に数えられる上地流は、中国武術の影響を強く受ける沖縄空手でも新しい流派の一つだ。上地完文(うえち・かんぶん 1877―1948)が中国福建省で学んだ武術を沖縄に持ち帰ったのがその発祥である。
 上地完文は32歳で帰琉後、ある事情から習得した武術をすぐに教えることはなかった。親しい人たちに教え始めたのは出稼ぎで工場勤務していた和歌山時代の1926年、49歳のときからだ。
 同じ沖縄出身の同僚たちの強い要請により、秘かに稽古を開始したのが始まりである。正式に「上地流」の流派を名乗るのは1940年。和歌山時代の高弟には、友寄隆優、上原三郎、赤嶺嘉栄、伊江島出身の新城清良(しんじょう・せいりょう 1908-76)などがいた。
 この時期、10歳で完文のもとに入門した少年がいた。新城清良の長男・清優(しんじょう・せいゆう 1929-81)だ。父の清良は胸を患い空手は3年くらいしか続けられなかったため、その夢を息子に託す形となった。当時、入門するには2人の保証人を立てることが必要とされる時代だったという。 続きを読む

沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流 第46回 特別編⑤(最終回) 沖縄県空手振興課長インタビュー

ジャーナリスト
柳原滋雄

 沖縄県の空手振興課長が交代した。「異例」となる4年間の任期を終えた山川前課長からバトンを引き継いだ佐和田勇人課長に、これまでの歩みと展望について聞いた。(取材/2020年4月3日) 続きを読む

沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流 第45回 特別編④ 剛柔流・宮里栄一の弟子たち

ジャーナリスト
柳原滋雄

宮城長順の後を引き継ぐ

順道館の2代目・宮里善博館長(中央右)と儀間哲さん(中央左)

 剛柔流を開いた宮城長順が1953年10月、65歳で急逝したとき、後を継承したのは34歳年下で警察官の宮里栄一(みやざと・えいいち 1922-99)だった。宮里は若い時分から柔道に打ち込み、空手と二足の草鞋をはいていた。
 宮里は柔道の講道館に倣(なら)い、順道館という当時としては立派な平屋建ての道場(その後鉄筋二階建て)をつくり、後進の育成に励んだ。現在、沖縄剛柔流の顔ともいえる東恩納盛男(ひがおんな・もりお 1938-)もこの道場の出身である。
 宮里は順道館を本部道場とし、1969年、沖縄剛柔流空手道協会の組織をつくって初代会長に就任した。
 宮里が残した功績として特筆されるのは、1981年の国体問題のときに、全空連加盟を推進する立場で中心的に尽力したことだろう。長嶺将真(松林流)、宮平勝哉(小林流)を支えて県空連の創設に邁進。その背景には、沖縄で国体を行うのに、「発祥の地」である沖縄から空手に参加しない選択肢はありえないとの宮里なりの思いがあった。
 柔道を通じて国体をとらえていた点で、空手だけを行っていた空手家とは違う立ち位置にあったと思われる。 続きを読む