コラム」カテゴリーアーカイブ

書評『日蓮の心』――その人間的魅力に迫る

ライター
本房 歩

500年早い「人権宣言」

 世界人権宣言の批准(1948年)から20年を記念して、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が1冊の書籍を編纂した。世界各国の歴史上の偉人、文学者などの言葉から、人権に関する普遍的メッセージを採録した『語録 人間の権利』(邦訳は1970年刊行)だ。
 ここに『万葉集』にとどめられた山上憶良の歌などとともに、日蓮(1222-1282)の『撰時抄』に記された次の一節が収録されている。

王地に生まれたれば身をば随えられたてまつるようなりとも、心をば随えられたてまつるべからず。(『新版 日蓮大聖人御書全集』204ページ)

 王(権力者)の支配する地に生まれたゆえに身体的には権力に従えさせられているようであっても、心は従えさせられることはない――。
 1274年の春、佐渡流罪から赦免され鎌倉に戻った日蓮が、自身を佐渡流罪に陥れた張本人である平頼綱と対面した際に放った言葉である。
 アメリカやフランスで人権宣言が生まれたのは18世紀の終盤であり、日蓮はそれよりも500年早く、高らかに「精神の自由」を宣言していたことになる。 続きを読む

書評『台湾書店 百年の物語』――書店から見える台湾文化の1世紀

ライター
本房 歩

 本書『台湾書店 百年の物語』は台湾独立書店文化協会(2013年設立)が刊行した『台灣書店歴史漫歩』(2016年刊)が原著になっている。同書のうち、第1部「百年書店風華」と第2部・第2篇「地區書店漫遊」を原文に忠実に翻訳して再構成し、日本語版オリジナルの注釈と写真が追加されている。
 翻訳者名は「フォルモサ書院」で、(郭雅暉・永井一広)となっている。大阪・天神橋筋商店街にあるフォルモサ書院は、台湾関係の書籍を数多く扱う古書店。おふたりは夫妻で、永井氏は2012年から台湾で暮らし、帰国後の2018年に同店を開業した。
 翻訳では日本に留学経験のある台湾出身の郭さんが日本語訳し、永井氏が原文と見比べながら日本語のブラッシュアップを施したそうだ。共同作業なので翻訳者をフォルモサ書院名義とした。ちなみに「フォルモサ」とは美麗を意味するポルトガル語。大航海時代に台湾に出会ったポルトガル人がこの美しい島を「フォルモサ島」と呼んだ。
 版元となったH.A.Bの代表である松井祐輔氏は、出版取次会社勤務を経て書店を開業し、現在は個人レーベルのH.A.Bとして出版社、WEB書店、取次をおこなっている。日本語版もまた〝本に魅せられた人〟たちの手で生まれたといえる。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第142回 奇跡の本屋

作家
村上政彦

 僕は小説家として生きているが、町の本屋がなければ、いまとは違った生涯を送っていたかも知れない。本屋は、僕にとって広い世界に開かれた窓であり、広い世界に続く扉であり、このような生き方もあると指し示してくれる道標だった。
 町の本屋が次々に店を閉めてゆくとニュースで見聞きし、この原稿を書くのに調べてみたら、2000年に21654店あった本屋が、2020年現在で11024店になっている。売り場面積を持つ店舗に限ると、9762店。この20年で半分以下になってしまった。
 率直にいって驚いた。何となく、本屋が減少しているとは分かっていたが、ここまでとはおもわなかった。町の本屋に育てられ、生きる道標を示された身としては、狼狽するばかりだ。
 そんなとき、『奇跡の本屋をつくりたい』の著者・久住邦晴さんを知った。北海道の札幌で親子二代70年にわたって「くすみ書房」を営んだ人だ。この著作のどのページにも本への愛が満ちている。こんなに本を愛した本屋は珍しいのではないだろうか。 続きを読む

被害防止・救済法案が成立――与野党合意に至った経緯

ライター
松田 明

被害者が「奇跡です」と感謝

 12月10日の参議院本会議で、「法人等による寄付の不当な勧誘の防止等に関する法律」(以下、救済法)と「改正消費者契約法」「改正国民生活センター法」が、賛成多数で可決成立した。
 これは旧統一教会による一連の反社会的とも言える問題を受けたもの。
 救済法は、霊感などを語って不安を煽る悪質な寄付勧誘行為を禁じ、措置命令に従わなかった場合は罰金や懲役といった刑事罰を科す。借金や財産処分による寄付金調達の要求を禁止する。
 また改正消費者契約法は、霊感商法の取消権の対象範囲を拡大。現行では「契約者本人に不利益を生じる不安」が要件となっていたが、親族の生命や身体、財産などに不利益が生じる不安につけこんだ場合も、本人が取り消し権を使えるように改正した。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第141回 ポストという接頭辞

作家
村上政彦

 ポストという接頭辞をやたら眼にするようになったのは、いつのころからだろうか? 僕の記憶では、ポスト・モダンが最初だったか。いまでもポスト・モダンは眼にするが、いっときほどではなくなった。最近はポスト・トゥルースか。何だか人々はポストという接頭辞で、新しい情報を得た気分になっているようにおもえる。
 ポスト・モダンにしても、ポスト・トゥルースにしても、僕が仕事にしている文学と無縁ではないので、そのことについて考えてみる。とりあえず今回はポスト・モダンについてだ。僕は使わないが、ポスト・モダンをポモと略す人がいる。言葉の使い方は人の好き好きなので、別に略してもらってもいいのだが、僕はそういう言葉は使わない。きちんとポスト・モダンという。
 ポスト・モダンの意味は、文字通り、モダンの次だ。しかしこういう流行(思想などにも流行はある!)を追いかけていると、つい、では、その次は何だろうとおもいがいたる。ある高名な批評家に「ポスト・モダンの次は何でしょうね?」と訊いたら、その人は笑いながら、ポスト・ポスト・モダンといった。これは半分が皮肉で、半分が真面目な回答だとおもった。 続きを読む