連載エッセー「本の楽園」 第141回 ポストという接頭辞

作家
村上政彦

 ポストという接頭辞をやたら眼にするようになったのは、いつのころからだろうか? 僕の記憶では、ポスト・モダンが最初だったか。いまでもポスト・モダンは眼にするが、いっときほどではなくなった。最近はポスト・トゥルースか。何だか人々はポストという接頭辞で、新しい情報を得た気分になっているようにおもえる。
 ポスト・モダンにしても、ポスト・トゥルースにしても、僕が仕事にしている文学と無縁ではないので、そのことについて考えてみる。とりあえず今回はポスト・モダンについてだ。僕は使わないが、ポスト・モダンをポモと略す人がいる。言葉の使い方は人の好き好きなので、別に略してもらってもいいのだが、僕はそういう言葉は使わない。きちんとポスト・モダンという。
 ポスト・モダンの意味は、文字通り、モダンの次だ。しかしこういう流行(思想などにも流行はある!)を追いかけていると、つい、では、その次は何だろうとおもいがいたる。ある高名な批評家に「ポスト・モダンの次は何でしょうね?」と訊いたら、その人は笑いながら、ポスト・ポスト・モダンといった。これは半分が皮肉で、半分が真面目な回答だとおもった。
 僕はそういう流行とは、着かず離れず、がいいとおもっているので、ポスト・モダンと称される小説は書いたことがない。だいたい流行というのは、しばらくすると時代遅れになって、恰好が悪くなってしまう。ただし、小説家にとってもマーケティングは必要で、着かず、だが、離れず、が重要なのだ。そうでないと、書いているものが、時代や社会と関係を持てなくなる。それは小説にとって不幸なことだ。

 僕はこの20年ほどのあいだ、米国発のグローバリゼーションにどう対応するかを考えてきた。いつだったかそのことについて詳しく書いたので、興味のある方はバックナンバーを読んでいただきたいのだが、そのなかで「オルターモダン」という考え方に出会った。作家で美術評論家のニコラ・ブリオーが提唱している。要約すると、モダンとポスト・コロニアリズムを高度に洗練して再構築する思想だ。おもしろいな、とおもっていたら、ブリオーの著作『ラディカント』が邦訳された。さっそく読んでみたら、期待にたがわず、興味深い。解説によると、「ラディカント」は、

アイビーのようなつる植物が茎から根(不定根)を生じるさまをあらわす


 たいていの人は、決まった土地に生まれ育ち、動かぬ根を持っている。しかし、ラディカントは、移動した土地に根を伸ばし、その場所へ自分自身を「翻訳」してゆく。具体的にいうと、「移民、亡命者、観光客、都市の放浪者」などの存在だ。ラディカントのキーワードは、この「翻訳」と「旅」である。ラディカントは、常に移動し、翻訳する。ある場所に留まっても、そこは仮の居場所でしかない。固有の文化に、なかば接続され、なかば切断されている。そして、あるべき関係を求めて世界を放浪する。

 ブリオーがモデルとしているのは、カリブ海地域のクレオール文化だ。クレオールとは異種混合の文化をいう。米国発のグローバリゼーションのもたらすものが、文化の均質化だとすれば、クレオール文化はそれに抗う有力な武器になる。クレオール文化は、特定の主流の文化があって、異種の文化がそこに吸収されるのではなく、どの文化も対等の価値を持ちながら混合してゆく。つまり、そこにはいくつもの文化的混合の選択肢が用意されるわけだ。どこにいてもコカ・コーラが飲めて、マックのハンバーガーを食べることができるのが、米国発のグローバリゼーションだとすれば、ラディカントが差し出してくれる料理は、その土地の食材を使いながら、コカ・コーラやマックのハンバーガーを食べなれた舌にも旨いと味わえる料理といえるだろうか。
 さて、それはどのような料理なのか? それはシェフの腕と工夫にかかっているといっておこう。

お勧めの本:
『ラディカント  グローバリゼーションの美学に向けて』(ニコラ・ブリオー著、武田宙也訳/フィルムアート社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。