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書評『仏教の歴史』――仏教の多様な歴史と文化を簡潔に伝える入門書

ライター
小林芳雄

言語を軸として仏教の歴史を描く

 フランスの仏教研究の泰斗が、一般読者に向けて書き下ろした仏教の入門書である。非常にコンパクトで平易な言葉で書かれているが、対象としている範囲は極めて広い。
 他の入門書が主にインド、チベット、中国、日本に絞って書かれていたのに対して、本書ではこれまであまり触れられたことがない中央アジア、韓国やモンゴル、さらにはタイやミャンマーの仏教史も解説されている。伝統教団を中心としながらも、現代の仏教に関する記述もあり、この一冊で約2500年にわたる仏教の歴史と思想が概観できる貴重な入門書である。

残念ながら、その意味の「フィロロギー」を翻訳するのに、満足できるような和語がない。ただの「文献学」ではなく、むしろ、文字通りの「言葉を愛する」という根本の意味を表す単語、例えば、「愛言学」あるいは「愛語学」というような表現があれば、と思う。いずれにせよ、私が仏教の思想とその伝播の勉強に乗り出したのは、ある愛言語学的な冒険を始める気構えからであった。(本書12ページ)

 本書の特色をさらにいえば、特定の時代や国や文化に重きを置かず、言語を軸に仏教史を俯瞰した点にある。 続きを読む

書評『日本のコミュニケーションを診る』――共感と勇気の対話が日本社会の幸福を生み出す

ライター
小林芳雄

心の痛みを伝えることが苦手な日本人

 著者はイタリア出身の33才の精神科医である。18才まで故郷のシチリア島で過ごし、ローマの大学で学び医師となる。その後、幼い頃より主にアニメを通して憧れを持っていた日本に留学し、医師免許と医学博士号を取得した。史上初めて日本とイタリア両国で医師国家試験に合格した稀にみる秀才である。日本の文化に造詣が深いだけでなく、見事に日本語を使いこなす。それは本書の冒頭を読むだけでも分かるだろう。現在はその能力を活かし、医療現場だけでなくコメンテーターや著述家としても活躍の場を広げている。
 本書はコロナ禍の日本で医師として過ごした経験をもとに執筆された。その間、自身が感じた疑問や違和感を精神科医の観点から深く掘り下げ、現代の日本社会の問題にメスを入れる。医学者としての〝冷静な視点と〟日本人を深く愛する〝暖かな眼差しが〟が両立している。ここに本書の大きな魅力の1つがある。

 肥大化した自己を引きずったまま、負の感情の扱い方や伝え方がわからないという、外傷コミュニカビリティの未熟な人が大勢いる。彼/彼女らは心の痛みを自覚できず、他者に助けを求めることができない。一方、健全なトラウマを体験してきた人は外傷コミュニカビリティを備えており、他者に「自分はこういう風に苦しい」と伝えられる。(本書26ページ)

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書評『頭じゃロシアはわからない』――諺を柱にロシアの実像を伝える

ライター
小林芳雄

諺から見える文化の違い

 著者の小林和男氏はNHKでモスクワ支局長を2度務めた経験を持つ。解説主幹などを経て、現在はフリージャーナリストとして活躍している。『エルミタージュの緞帳』(NHK出版)などの著者としても知られているだけでなく、日本とロシアの文化交流にも尽力し、半世紀以上に渡ってロシアを見つめ続けてきた。
 表題は19世紀末のロシア帝国の外交官で詩人のフョードル・チュッチェフの有名な四行詩「頭じゃロシアはわからない/並みの尺度じゃ測れない/その身の丈は特別で/信じることができるだけ」の冒頭から採られたもの。ウクライナ危機以後、諺が好きなロシア人がどんな諺を口にしているのか調べたところ、多くの人がこの言葉を口にしているという。
 本書は102の諺を中心に、著者がこれまでに出会った人物や出来事を綴ったエッセイ集である。生活に根差した諺というレンズを通して、日本人にはますます「理解しにくい国」とされつつあるロシアの等身大の姿を伝えようとするものだ。内容はインタヴューした政治家や文化人に関するものから、歴史、芸術、食文化、果てはペット事情など多岐にわたっている。心が温かくなるような楽しいものもあれば、ソ連時代の背筋が寒くなるようなものあるが、すべて著者の経験したことであるという。興味深いエピソードを読み進めていくうちにロシアの独特の価値観、多様で奥深い文化が浮かび上がってくる。 続きを読む

書評『宗教を哲学する』――政治と宗教を考えるための画期的論考

ライター
小林芳雄

日本における宗教理解の浅薄さ

 2022年7月、安倍晋三元総理が凶弾によって倒れた。逮捕された容疑者の犯行動機が旧統一教会への恨みであったことから、政治と宗教の問題がにわかに注目を浴び、大きな問題としてとりあげられた。ワイドショーでは旧統一教会と政治家の関係性を追求し、そこにジャーナリストや研究者が登場し、さまざまな議論を繰り広げた。また国会でもこの問題がとりあげられた。
 しかし、それらの発言には時局迎合的なものが多く、国家と宗教という問題を真面目にとりあげ議論を深めていこうとする人は、ほんの一握りでしかない。
 本書は副題に「国家は信仰をどこまで支配できるのか」とある通り、国家と宗教の関係性というテーマを真正面からとりあげている。
 同じ問題をあつかった本がこれまで出版されてきたが、憲法や法解釈の観点から論じたものが大半を占めていた。しかし本書は哲学という観点から問題の本質に迫ろうとする画期的な論考といえるだろう。 続きを読む

書評『J・S・ミル』――自由と多様性を擁護した哲学者の思想と生涯

ライター
小林芳雄

「精神の危機」を乗り越えて

 本書は、経済学者・哲学者として知られるジョン・スチュアート・ミル(1806~1873年)の評伝である。前半は『自伝』にもとづき思想の形成過程をたどり、後半は代表的な著作を読み解く。道徳と政治を中心にミルの思想を解説した入門書である。
 ミルは9人兄妹の長子として誕生した。父ジェイムスは「最大多数の最大幸福」という言葉で有名な哲学者・ジェレミー・ベンサムの思想的盟友であった。彼は初めての子どもに大きな期待を寄せ、ミルを同世代の子どもから引き離し学校にも通わせず、ベンサム主義による独自の英才教育を施した。ミルもその期待によく応え、若き知識人へと成長する。さらに18才で東インド会社に就職し経済的基盤をも確立する。

この過程を把握しておくことは、ミルの成熟期の代表的著作群を理解する上で欠かせない。苦闘の結果ばかりでなく、苦闘という経験それ自体の持つ意義が成熟期の思想の内容に反映しているから、なおさらのことである。(本書49~50ページ)

 だが20才に差掛かった頃に「精神の危機」がおとずれる。ベンサム主義は利己的人間観に基礎をおいている。その哲学による教育を受けたミルだったが、あるとき「これまで取り組んできた社会活動の目標が達成されたとしても、自分は幸福ではない」また「自分は父の教育が作り出した推論する機械で、その性格は変えることはできない」という疑念が襲い、人生の目的を見失い極度の無気力状態におちいる。こうした状態は約6年続いたという。 続きを読む