連載エッセー「本の楽園」 第85回 ポバティー・サファリとは何か?

作家
村上政彦

 この『ポバティー・サファリ』のテーマは、一言でいうなら「貧困(ポバティー)について」だろう。序文を書いているブレディみかこはいう。

「ポバティー・サファリ」とは、サファリで野生動物を見て回るように貧困者を安全な距離からしばらく眺めたあと、やがて窓を閉じてしまうことだ

 著者のダレン・マクガーヴェイは、そんな「サファリ」出身の若者だ。スコットランドの公共住宅――貧困層が暮らす真っ只中で生まれ育った。
 母は、少女のころにレイプされ、そのトラウマが酒とドラッグを求めた。息子が言うことを聞かないと、ナイフを振りかざして殺そうとする。まっとうな子育てができない。ダレンは学校で虐められるが、母親の暴力に比べれば、そんなものはなんでもなかった。
 その母は、彼が10歳のときに夫とのいさかいで家を出る。36歳の若さで、酒とドラッグのせいで死んだ。ダレンは、すでに母と同じく、酒とドラッグに溺れていた。そして、18歳でホームレスになった。
 ある朝、酔っ払って留置場で眼醒めたとき、

人生を根本から変えなければいけないとようやく気づいた


 ダレンが救われたのは、そういう中でも、本をたくさん読んできたことによる。こういうと、なんだ、そんなことでとおもわれるかも知れないが、本を読むことは、人に知という武器を与える。これは磨きようによって、人間と社会を見る視力となる。
 中等学校の卒業を迎えるころ、BBCラジオ・スコットランドの番組で、雇用と階級の問題について、意見を述べる機会があった。おそらくダレンは気の利いたことをいったのだろう。これが評判になってあちこちの放送局から出演の依頼があり、ついにラジオ番組の司会者になった。ラッパーとしてもデビューし、広く全国で活動を始める。
 冒頭からしばらく描き出される、ダレンの悲惨な子供時代は、「サファリ」を見物に来る客たちへのサービスとして書かれている。
 ダレンは、メディアから意見を求められ、人々が聴きたがっているのは、貧困による悲惨な体験であって、それをどうするかという政治的な意見ではないことを学んだ。そこで、まずは、ちゃんと「サファリ」を見物できるようにしてあるのだ。
 その後、この本の肝の部分が提示される。貧困とは何か? どうしたら貧困をなくすことができるのか? 左派は体制が悪いという。右派は自己責任だという。だが、問題は、それほど単純ではない。
 ダレンはいう。

ぼくはもう、貧困は政治家が解決できる問題だとは思っていない。政治家がそれをのぞんでいないからではなくて。貧困解決に必要なことを正直に話し合うのが政治的にむずかしすぎるからだ。もし権力の座にある人たちが、貧困問題への取り組みに何が求められるかを率直に話したら、ぼくらはそれを聞いて心底ショックを受けるだろう。社会が向き合う課題がとてつもなく大きいのに加えて、個人が一定程度、責任を負うことを求められるからだ。これを認めるのは、左派の間ではタブーだった

ぼくらは、新しい政治のあり方を切り拓かなければならない。体制を非難するだけでなく、自分たちの考えと行動も精査する政治。社会について見当違いな考えを持つ過激な右派が独占している、個人の責任という考えを、こちらに取り戻す政治。根源的な変化を主張するだけでなく、できるだけ多くの問題を自分たちで引き受けて、最も貧しいコミュニティで消耗した人間の能力を再構築できる新しい左派

左派にとっての問いは、もはや「いかに体制を根源的に変革するか」ではない。「いかに自分たちを根源的に変革するか」だ

 ダレンの結論は、こうだ。

社会を根本的に変えたいと望む個人や運動が新境地に達するには、まず自分たちの内側を根本的に変える必要があると認めなければならない

いまでは、コミュニティを変えるのに一番実際的なやり方は、まず自分を変えて、その上で自分がどうやって変わったのかをできるだけ多くの人に伝える道を探ることだと思っている

 ダレンは右派に接近したわけではない。体制の変革をめざす左派でありながら、同時に、個人の変革をめざすことの重要さを主張するのだ。
 この本の最後の言葉を引こう。

僕は変わった。これはひとりの人間にできる、最もラディカルな行動だ

 暴力とドラッグの蔓延する貧しい地域で生まれ育ち、生きるために苦闘を続けてきた彼の言葉は、とても重い。貧困と戦うには、体制の変革と自己の変革の両方が必要なのだ、というのは、彼自身の実感である。
 僕がダレンのこの本に感銘を受けたのは、彼が言葉を武器にして、手探りで世界を変えるための答えを見つけようとしている態度だ。ここには、真の作家の姿がある。

参考文献:
『ポバティー・サファリ――イギリス最下層の怒り』(ダレン・マクガーヴェイ著/山田文訳/集英社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。