連載エッセー「本の楽園」 第86回 生きるための詩

作家
村上政彦

 このところずっと手元に置いて、ちょっとした時間があると読み返している本がある。若松英輔の『詩と出会う 詩と生きる』だ。「NHKカルチャーラジオ文学の世界 詩と出会う 詩と生きる」という番組のテキストとして書き下ろされたものに、「薄い本一冊分ほど加筆」された本である。
 もともとラジオ番組のテキストだったということで、とてもわかりやすい。しかし内容は、深い。詩を学びたい人には、いい仕上がりになっている。
 僕は、若いころ詩を読んでいたし、書いてもいた。いまからおもえば、極めてつたないものだったが、書きたい意欲があふれていて、書かずにはいられなかった。好きな詩人は、中原中也と立原道造で、つまりは、そういう甘い、感傷的な抒情詩を書いていたのだ。
 詩を書かなくなったのは、読まなくなったのは、いつのころからだったろうか。はっきりとは憶えていないけれど、二十歳前後のことだったとおもう。関心が小説に移って、小説や小説を論じた批評を読むようになった。そして、小説を書くようになった。
 周りを見ると、詩だけを書いている詩人がいるし、小説だけを書いている小説家がいる。まれには詩も小説も書く作家がいる。
 どうして僕が詩を読み書きしなくなったのか? 理由を考えると、単純についていけなくなった気がする。僕が好きな中原中也と立原道造は、近代詩人である。しかし詩の専門誌を読むと、彼らが書くような詩は、もう、古かった。「現代詩」という新しい動向が詩の世界にはあった。

 最近、『現代詩手帖』という詩の専門誌が、「現代詩」はどう読めばいいのか、という特集をやった。これは「現代詩」を創作している詩人に向けたものではないだろう。想定されている読み手は、「現代詩」の難しさに戸惑っている人々だ。
 そういう読み手に向けて、「現代詩」は、こう読めばいい、難しく考えなくていい、というメッセージを送るのが、この特集の意図するところだとおもう。詩の専門誌が、そんな特集を組むということは、「現代詩」の難しさに戸惑っている人々が少なくないということだ。
 単著としても、「現代詩」をどう読めばいいのか? をテーマにした本は、このところときどき眼にする。実際、手に取ってみたものも何冊かある。どの本も、現役の「現代詩」の書き手が、「現代詩」は、こう読めば難しくない、さらには、無理に分かろうとしないでいい、と書いていた。
 しかし僕は大いに疑問だった。プロの書き手に解説してもらわないと読めない「現代詩」とは何か? しっかり読み込んで、それでも分からない「現代詩」とは何か? あるとき、海外の高名な詩人に、ある人が彼の書いた詩の一節について尋ねた。これは、どういう意味ですか?
 すると、その詩人は、こう答えた。それを書いたとき、その一節の意味は、私と神が知っていた。いまは神だけが知っている。
 長々と前置きを連ねてきたが、『詩と出会う 詩と生きる』を読んで、これはどう読めばいいのか? あるいは、分からない、という感想を持つ読み手はいないだろう。
 たとえば、こんな詩――

この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかね
琴はしずかに鳴りいだすだろう

 2冊の詩集を残して病死した、八木重吉(1898~1927)の詩だ(僕は初めてこの詩人を知った)。
 あるいは、こんな詩――

だましてください言葉やさしく
よろこばせてくださいあたたかい声で。
世慣れぬわたしの心いれをも
受けてください、ほめてください。
あああなたには誰よりも私が要ると
感謝のほほえみでだましてください。

その時私は
思いあがって傲慢になるでしょうか
いえいえ私は
やわらかい蔓草のようにそれを捕へて
それを力に立ち上がりましょう。
もっともっとやさしくなりましょう。
もっともっと美しく
心ききたる女子になりましょう。

 これは長瀬清子(1906~95)の詩(僕も、さすがにこの詩人の名だけは知っていた)。
 若松英輔は、柳宗悦の「民藝」と詩について語っている。

 無名な者が、日常生活で用いられる雑器を作る。日々の生活に耐えられるようにと、頑丈に、しかし、心の彩がそっと添えられたものをひたすらに作る。そこに真実の美が生まれる。美は、人間の生活を支えるだけでなく、私たちはどこから来て、どこへ行くのかという存在の問いをめぐってまで、静かに語りかける。
 このことは詩をめぐっても起こっている。柳宗悦が器で行ったことを、言葉において、それも詩において行うことは可能なのではないかと思うのです。

「民藝」は、日常の雑器に美を見出す運動だ。八木重吉の詩も、長瀬清子の詩も、日常の言葉を使って、そこに豊かな詩情を盛り込んでいる。難しさに戸惑うところは、どこにもない。
 詩情を求める人が手にして、読んでみて、じかにそれを受け取ることができる。これを「言葉の『民藝』」といってしまうと、安易にすぎるだろうか。
 しかし若松英輔は、確信犯であるとおもう。読み手を戸惑わせる「現代詩」の動向に挑んでいる。『詩と出会う 詩と生きる』には、そういうたぐいの詩は取り上げられない。あえてそうしているのだ。
 また、この本では、ハンセン病で亡くなった無名の詩人の詩も引かれる。

曲がった手で 水をすくう
こぼれても こぼれても
みたされる水の
はげしさに
いつも なみなみと
生命の水は手の中にある
指は曲がっていても
天をさすには少しの不自由も感じない

 若松英輔は、この詩を、「自らの人生に裏打ちされた『血』で書いています」と評する。この無名の詩人にとって、詩を書くことは、生きることと同義だったのだ。
「現代詩」が難しくなるのには、それなりの理由があるだろう。そういう詩があってもいい。僕は、神だけが意味を知っている詩を否定しようとはおもわない。ただ、八木重吉や長瀬清子やハンセン病の無名の詩人のような詩も、これは詩ではない、と否定してはいけないとおもう。
 いや、これこそが詩なのだ、と評価され、多くの読者を得て欲しいとおもう。間違いなく、若松英輔は、それを志している。そして、僕は、彼の試みを支持したい。

参考文献:
『詩と出会う 詩と生きる』(若松英輔著/NHK出版)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。