ジョブ型雇用の活用で若者の暮らしを安定させる

東京大学教授
本田由紀

 若者の生きづらさの問題を、「教育」から「仕事」へのアクセス(接続)から読み解く。

不安定な雇用が殺伐とした社会を生み出す

 これまで仕事と家庭と教育の関係について研究を続けてきました。90年代以降、仕事や暮らしの責任が、過剰に個人へと押しつけられる「個人化された能力主義」が社会全体に蔓延していることを懸念しています。行き過ぎた自己責任論が、人びとの心に嫉妬や憎しみなどの負の感情を呼び起こし、社会全体を分断しているように感じるのです。
 かつて社会人が働くといえば、「正社員(正規雇用)」を意味していました。ところが雇用の流動化によって正社員といっても名ばかりの場合が増加し、また「非正社員(非正規雇用)」の割合も急激に増加しました。非正社員の契約形態の詳細を見ても、パート・アルバイト・契約社員など実にさまざまです。そして雇用形態が多層化し、より不安定となったために、家庭に持ち帰る賃金が減少し、教育に充てる予算も減ってしまう。いわば「多層化しつつ下方に引っ張られる」負のスパイラル(悪循環)が、社会全体に格差と困窮をもたらしている状況だと思います。
 厳しさを増す社会では、人びとの心に、他者への共感や同情、連帯といった意識が成り立ちません。経済的に余裕のある人は、「今の暮らしは自分が必死の思いで獲得したもの。努力をしない人間が貧しいのは当然のことだ」と冷酷な視線を向けがちです。
 また経済的に困窮した人は、「今の貧しさは自分の努力不足が原因だ。あるいは先天的に能力が足りなかったのかもしれない。特別な才能もない自分には生きる価値などないのではないか」とまで思いつめてしまう場合もあります。
 さらにその感情が悪いほうへ高じてしまうと、「これほどまでに自分が苦しいのは、既得権益の甘い汁を吸っているずるいやつがいるせいだ。許せない」と考え、インターネットなどで誹謗中傷の言葉をぶつけるようになってしまうのです。
 バブル経済崩壊以降、働き方の構造変容によってもたらされた自己嫌悪や他者への憎悪を、いかにして社会全体で是正していくのか、日本社会が抱える重大なテーマではないでしょうか。

若者を迷わせる「キャリア教育」の幻想

 文部科学省や中教審(中央教育審議会)などが策定する教育政策では、激変する働き方の構造変容に対応すべく、「キャリア教育」という概念が提唱されてきました。すなわち、子どもたちに生きるための勤労観や職業観を養い、基礎的・汎用的能力を身につけさせようとする発想です。
 しかし現状では、実効性あるカリキュラムとはなっておらず、コスト(経費)回避のためのスローガン倒れに終わってしまう恐れがあります。なぜなら、「自分はいかなる職種を選び、どのように働きたいのか」といった職業観や勤労観は、上から押しつけられて身につくものではありません。また、どんな分野にも通用する「コミュニケーション能力」や「問題解決能力」といったあいまいで抽象的な能力を、誰がどのように子どもたちに教えていくのか、具体的な方法が示されていません。
 結果、キャリア教育の実施を押しつけられた学校現場では、職場見学や自己分析のための冊子配布、地域の年配者などを招いての「社会人講話」などをキャリア教育だとしています。これでは、子どもたちが社会で生き抜いていくために必要な能力や専門性が身につきません。
「社会人講話」を例にすれば、地域の人びとや社会人などが学校の子どもたちとふれあいを深めること自体は有意義ですが、地域交流と実社会で生きるためのキャリア教育とは別物です。そもそもバブル経済崩壊以前と以後では、雇用形態もITなどのテクノロジーも激変しています。また子どもたちの知的水準や関心事も、数十年前とは異なっているはずです。
 教育とは、子どもたちの目線に合わせて授業内容をしっかりつくり込んで、ようやく伝わるかどうかという大変な繊細さを要求される世界です。学校外から人を招けば、すべてがうまくいくだろうという粗雑な発想はやめるべきです。

限定正社員で職業の「水平的多様性」を目指す

 90年代以降の社会変容の中で、子どもや若者への評価尺度にも変化が見られます。かつての評価や選抜の主な基準は、学力や出身校などの「縦軸」でしたが、今はそこに、コミュニケーション能力や意欲・主体性などもう1本の「縦軸」が太く立ち上がっています。
 これら2つの縦軸によって人びとが評価され、軸の上位に位置する若者ほど優秀で立派な人間であり、下位に位置する人間は劣った存在であるから、社会的に排除されてもやむを得ないなどと2極化した誤った人間観を生み出しているのです。
 世界一のスピードで人口減少・少子高齢化が進展する日本にとって、若者は未来を担ってくれる大切な存在です。若者がひとりも排除されることなく明るく元気に活躍できる日本こそ、私たちが目指すべき社会ではないでしょうか。
 年収の多寡や世間的なイメージのみで優劣を論じられるようになった原因である2本の縦軸のゆがみを、可能な限り水平に戻し、職業の多様性を認めていく必要があります。そのために有効なのが、「分野」に基づく専門性の確立と、ジョブ(職務)型雇用の発想に基づく「限定正社員」制度の導入です。
 限定正社員は、安倍政権の成長戦略の一環に位置づけられているためか、「解雇がしやすくなる」と批判の声が集まっています。ですが、解雇のためのルール運用を厳格に定めれば、働く人びとの暮らしを守ることができます。
 実際に、働く地域や仕事内容が明確化されているため、突然の配置転換や転勤を言い渡されることがなく、時間をかけてスキル(技能)アップに取り組むことができます。また、「ブラック企業」の問題でしばしば報道されている、際限のない過重労働を法律と契約に基づいて拒否することができます。
企業が長期的に人材を抱え込む余力のない時代だからこそ、人を雇いやすくし、働く人びとが専門性を高めて雇用不安を乗りこえられるような働き方を、社会全体で推進していくべきだと思います。

価値観の転換こそ政治が果たす役割

 最近の政治情勢を見ていると、安倍政権が衆参のねじれを解消したことで自信を深め、暴走し始めているように思えてなりません。その強引な国会運営に、私は危うさを感じています。自民党は旧政権のとき同様、経済成長至上主義を掲げて財界と強力なタッグを組み、それに基づく雇用政策・社会政策を進めようとします。
 そんな政治状況下にあって、庶民の暮らしを大切にするという公明党だからこそ、若者の雇用や働き方をどう守っていくのか、自民党を厳しく制御してほしいと思います。場合によっては政策ごとに野党と連携し、自民党を牽制するぐらいの柔軟なフットワークを持ってもよいのではないでしょうか。
 私が政治に期待することは、社会全体の基本的なデザインを転換していくことです。たとえば企業の新卒一括採用にしても、採用時期の問題だけが焦点化し、その問題の根底にある採用方法の煩雑さや採用基準の不明確さについて踏み込まれることはありません。
 激しい就職活動に疲れた若者の「就活自殺」が続いているのも、ブラック企業が世の中にはびこっているのも、若者の問題に無関心であったり、やむを得ないものだとどこかであきらめたりしている人びとがいるためです。
 政治にできることはたくさんあります。たとえば、「卒研(卒論)採用」(※1)や「ギャップ・イヤー採用」(※2)の推進など、若者の将来を守るための工夫はたくさんあるのです。未来を担う若者を支えていくためにも、政治にはもっと努力を重ねてほしいと願っています。

※1 「卒研(卒論)採用」:学生が卒業論文を書き終えた時点から就職活動を開始する。就職活動による学業の妨げを防ぐとともに、大学教育の最終的成果を踏まえた仕事の選択が可能となり、学生にとっても、企業にとっても採用ギャップの解消につながる。

※2 「ギャップ・イヤー採用」:学生の適性や本人の志望を見極めるため、大学卒業後、NPOやボランティアなどに携わってから就職活動を開始する。NPOやボランティア活動に従事している間は新卒と同様に扱う。


ほんだ・ゆき●1964年、徳島県生まれ。独立行政法人日本労働研究機構(現 労働政策研究・研修機構)研究員、東京大学社会科学研究所助教授などを経て、2008年から現職。専門は教育社会学。新卒一括採用に代表される社会慣行が、若者の公正・合理的な就職の機会を奪うとともに、非正規雇用をはじめとした劣悪な雇用環境が働く者の技能習熟の妨げになっている現状を、あらゆる角度から研究・提言している。『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)で第6回大佛次郎論壇賞奨励賞を受賞。主な著作に『「ニート」って言うな!』(共著、光文社新書)、『教育の職業的意義』(ちくま新書)などがある。