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連載エッセー「本の楽園」 第92回 tanbunとは

作家
村上政彦

 今回の本は、『kaze no tanbun 特別ではない一日』である。キーワードは、「tanbun」だろう。日本語表記にするなら、おそらく「短文」。これを、どのように解釈するかが、まず、ポイントになる。
 短い文章――短篇小説、エッセイなど、普通に思い浮かべるのは、そのあたりだろうか。編者は、西崎憲。福岡の出版社・書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)から発刊された文芸誌『たべるのがおそい』の編集長を務めた人物だ。
 もともと作曲から出発し、翻訳をするようになり、のちに小説や短歌を書くようになった。『たべるのがおそい』が話題になったのは、掲載作から芥川賞の候補作が選ばれたことが大きい。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第91回 瓦礫の未来

作家
村上政彦

 子供のころ、いくつか憧れた仕事があった。まず、船乗りと建築家だ。広い海に出て世界をめぐるのは、何とも愉快な仕事におもえた。それから自分の好きなように道路を引き、橋を架け、ビルを建てるのも、同じように愉快におもえた。
 ところが、僕にはできないと分かった。僕には、色弱という生まれつきの眼の異常がある。赤や黄色やはっきりとした色の見分けはつくのだが、微妙な色の違いがわからないのだ。
 船乗りは通信に手旗信号を使う。その色の見分けがつかないといけない。建築家は電気の配線などを指示する。やはり、その色の見分けがつかないといけない。僕にはそれができないのである。
 このことを知ったとき、子供なりにショックだった。母親に不満を述べた。そうしたら、彼女は、ふん、と鼻先で笑って、産んでもらっただけありがたいとおもえ、とうそぶいた。僕は驚いて言葉を失った。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第90回 地球を見る

作家
村上政彦

 アポロ11号が月面に着陸したのは1969年の夏のことだった。僕の記憶には、我が家の映りの悪いモノクロのTVの、アームストロング船長が、宇宙船を降りて月面に降り立った映像が残っている。
 人類初めて月に立つ――とメディアや大人たちは騒いでいたが、僕はまだ子供のことだから、それほど深い感慨を持ったとはおもえない。「へー、これが月の表面か」とか、「宇宙服ってけっこう重そうだな」とか、おそらくそんな幼稚な感想だっただろう。
 もう少し成長して、宇宙の起源だとか、太陽系や銀河系の大きさだとか、そんなことに興味が及ぶようになると、少しばかり宇宙というものの存在が分かり始めてきた。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第89回 環境と私

作家
村上政彦

 若いころに、ある現代思想の雑誌で、アフォーダンスの特集をやっていた。当時の僕の意識は、ほとんど素通りに近かった。そういうものがあるんだ、ぐらいの受け止め方で、詳しく読みもしなかった。
 それから30年以上を経て、先輩作家と話していたら、アフォーダンスの話題になった。ぜひ、勉強したほうがいい、といわれて、僕はこの先輩作家をとても尊敬しているので、さっそくアフォーダンスの教科書的な本を取り寄せた。
 僕の頭は、典型的な文系である。最近は文理融合などといわれて、理系に強い作家が重んじられる。僕は、だめだ。まず、数学が嫌いだ。数字が嫌いだ。見ていると、眉間に皴が寄ってくる。
 しかしどういうわけか、エヴァリスト・ガロアなんて数学者に憧れた。僕にとって、ガロアは数学者の姿をした詩人だった。彼は、20歳で天才的な業績を残し、革命に関わり、女のために決闘で死んだ。これはれっきとした詩人の生涯ではないか。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第88回 生きるために書くのか、書くために生きるのか

作家
村上政彦

 僕は、生きるために書いている。この書くには、稼ぐという極めて実利的な要素が含まれている。しかし、では、稼げれば書かないでいられるか、というと、そうはいかない。書かずにはいられないのである。
 だから、僕の、生きるために書く、ことには、書くために生きる、ことが内包されている。でも、考えてみれば、生きるために書くことと、書くために生きることを分離するのは難しい。
 ある作家が、なぜ書くか? と訊かれて、(多分)ジョークをまじえて、「銀座にベンツ、軽井沢」といった。誰だったか忘れてしまったが、エンターテインメント系の作家だったとおもう。
 推測するに、この作家だって、たくさんある仕事のなかから、書くことを選んだわけで、稼ぎのいいことをいちばんに挙げても、やはり、彼の仕事には、書くために生きる、ということが含まれている。
 多かれ少なかれ、小説家や詩人、批評家などは、生きるために書いているが、書くために生きているのでもある。近年になって書くことで稼ぐのが難しくなってきて、いよいよその傾向が強くなりつつある。 続きを読む