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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第42回 正修止観章②

[2]「1. 結前生後し、人・法の得失を明かす」②

(2)失を明かす

 この段落では、正しい修行ではなく、誤ったあり方を詳しく描写し、厳しい批判を加えている。まず、

 其れ癡鈍なる者は、毒気(どっけ)深く入りて、本心を失うが故なり。既に其れ信ぜざれば、則ち手に入らず、聞法の鉤(かぎ)無きが故に、聴けども解すること能わず、智慧の眼に乏しければ、真偽を別かたず、身を挙げて痺癩(ひらい)し、歩みを動かすも前(すす)まず、覚らず知らず、大罪の聚(あつ)まれる人なり。何ぞ労して為めに説かん。設(も)し世を厭う者は、下劣の乗を翫(もてあそ)ばば、枝葉に攀附(はんぷ)し、狗(いぬ)の作務(さむ)に狎(な)れ、獼猴(みこう)を敬いて帝釈と為し、瓦礫(がりゃく)は是れ明珠(みょうじゅ)なりと宗(たっと)ぶ。此の黒闇暗 の人に、豈に道を論ず可けん。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、512-514頁)

とある。愚かな者は、毒気が深く体内に入って本心を失う(『法華経』如来寿量品に出る)から愚かなのである。その人が信じない以上、手に入れることができず、法を聞く鉤(悪を制圧するもの)がないから、聞いても理解することができず、智慧の眼が乏しいから、真偽を区別できず、全身がしびれているから、歩みを進めようとしても進めないとされる。このような人は何も知覚せず、大罪が積もった人であるので、苦労して説く必要はないとされる。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第41回 正修止観章①

 次に、十広の第七章、「正しく止観を修す」について取りあげる。言うまでもなく、『摩訶止観』全体のなかで、一念三千説が説かれる、最も重要な章である。巻第五上から巻第十下の六巻を占めている。また、第八章から第十章は実際には説かれず、その内容の一端は第一章の「大意」(五略として示される)に説かれているだけである。

[1]全体の構成

 はじめに全体の構成について説明する。この章で最も重要な箇所は、いわゆる十境十乗観法と呼ばれるものであるが、これが説かれるのは、下に示す科文の最後の「2.8. 依章解釈」においてである。そこで、まずはこの範囲の科文を示し、順に内容を紹介する。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第40回 方便⑪

[6]調五事について

 今回は、二十五方便、つまり具五縁、呵五欲、棄五蓋、調五事、行五法の五項目の第四に当たる「調五事」について紹介する。五事とは、食、眠、身、息、心であり、これを適度に調整することが説かれている。
 食と眠は、禅定の時以外についての規定であり、他の三事は、禅定の入定(禅定に入ること)・出定(禅定から出ること)・住定(禅定に留まっていること)の時に関する規定であるとされる。
 食と睡眠については、食べ過ぎたり、食べな過ぎたり、睡眠過多であったり、睡眠不足であったりしてはならないと戒めている。つまり、適度な食事と睡眠が勧められている。健康な日常生活を送るうえでも重要な点であると思うが、止観を実践するうえでも重要なものとされているのである。面白いことに、睡眠は眼の食事といっているが、現代的にいえば、睡眠は脳の食事といったところであろう。
 身、息、心の三事は互いに離れることがないので、合して調えなければならず、「初めに定に入る時、身を調えて寛ならず急ならざらしめ、息を調えて渋(じゅう)ならず滑(かつ)ならざらしめ、心を調えて沈(じん)ならず浮(ふ)ならざらしむ」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、493頁)と説かれている。
 最初に禅定に入るときの注意事項として、身体を調えてゆるやかでもなく差し迫っているのでもないようにさせ、呼吸を調えてすべりが悪くもなくなめらかでもないようにさせ、心を調えて沈鬱にもならず軽浮でもないようにさせることが示されている。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第39回 方便⑩

[5]棄五蓋について

 次に、棄五蓋について紹介する。この段は、「五蓋の病相を明かす」と「五蓋を捨つるを明かす」の二段に分かれ、後者はさらに「事の棄五蓋を明かす」と「理の棄五蓋を明かす」の二段に分かれる。

(1)五蓋の病相を明かす

 五蓋とは、貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔(じょうげ)、疑の五種の煩悩であり、蓋と通称する理由については、「蓋覆(がいふく)纒綿(てんめん)して、心神は昏闇(こんあん)にして、定・慧は発せざるが故に、名づけて蓋と為す」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、466頁)とある。蓋とはアーヴァラナ(āvaraṇa)の漢訳で、善心を覆蓋(おおいかくすこと)するという意味である。
 前の呵五欲とこの棄五蓋との関係については、「前に五欲を呵すとは、乃ち是れ五根は現在の五塵に対して五識を発す。今、五蓋を棄つるは、即ち是れ五識は転じて意地に入り、追って過去を縁じ、逆(あらかじ)め未来の五塵等の法を慮(おもんぱか)り、心内の大障と為る」(『摩訶止観』(Ⅱ)、466-468頁)とある。つまり、五欲は、五根が現在の五塵(色・声・香・味・触の五境)に対して五識を生じて対象に執着することであるが、五蓋は、五識の根本である意識の段階に深く根をおろしたもので、現在ばかりでなく、過去、未来の五塵に対しても執着を起こすことである。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第38回 方便⑨

[3]具五縁について⑦

「近善知識」について

 最後に、具五縁の第五の近善知識(良い友人に近づくこと)について紹介する。善知識は五縁のなかでもとくに重要視されており、具五縁の解説の冒頭にも、『禅経』(出典未詳)の「四縁は具足すと雖も、開導は良師に由る」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、372頁)を引用している。「良師」は、後述する教授の善知識のことである。ここでも、次のように、得道(覚りを得ること)のための大因縁とされている。

 第五に善知識とは、是れ大因縁なり。謂う所は、化導して仏を見ることを得しむればなり。阿難は、「知識は、得道の半の因縁なり」と説き、仏は「応に爾るべからず。全の因縁を具足す」と言う。(『摩訶止観』(Ⅱ)、450-451頁)

 ここに紹介されている得道のための半の因縁か、全の因縁かについては、『付法蔵因縁伝』巻第六の「昔、阿難は仏に白して言うが如し。『世尊よ、善知識とは、得道の利に於いて、半の因縁と作る』と。仏の言わく、『不(いな)なり。善知識とは、即ち是れ得道の全分の因縁なり』と」(大正50、322上23-25)に基づくものである。 続きを読む