連載エッセー「本の楽園」 第160回 生涯の一冊と出会うには

作家
村上政彦

 僕は本が好きだ。小説や詩、評伝やノンフィクション――どのジャンルの本も、本であるなら手にとる。なかでも、最近になって気がついたのだけれど、本について書かれた本が好きらしい。
 僕の蔵書は(厳密に数えたことはないが)、ざっと3000~4000冊ぐらいだろう。これでもかなり整理してきた。そのなかに、本について書かれた本が眼につく。書評集、お勧め本のエッセイ集、読書についての本などなど。
 いちばん近くは、若松英輔の『読書の力』を読んだ。

 すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人々と親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ。(デカルト『方法序説』谷川多佳子訳、岩波文庫)

 僕は大学で小説の書き方を教えているのだが、そのとき学生に言うのは、書くためには、まず、読まねばならない、そして、読書は著者(他者)との対話であるということだ。僕らは読書によって、デカルトの言うように「一流の人々」と対話ができる。それが書くための準備になる。
 ただ、若松によると、対話の相手を選ぶことが大切なようだ。良い対話の相手=良書である。その条件とは――

一つ目は、その人のなかで出会うための準備ができていること。
二つ目は、その本が読む者の変化に耐えうること。
三つ目は、出会うべき時に出会っていること。
四つ目は、再読する必要を感じること、すなわち、読み終わらない本であること。

 準備とは、その人が切実に求めていること。若松はそれを「ある種の餓えのようなもの」という。本が読む者の変化に耐えうるとは、成長してゆく人間の、心の深まりに応じることができること。浅い本では、心の深まった読み手には物足りなくなる。
 時機は周期的にめぐってくる時期ではない。いまだからこそ出会えたという手応えがいるのだ。さらに再読の必要とは、たとえば一度しか読んでいない本であっても、そこに生涯をつらぬくような問いかけがあること。
 このような条件をそろえ持っているのが、若松の定義する良書となる。そう考えると、なかなか良書と出会うのは難しい。待っていても、向こうからやってきてはくれないだろう。
 こちらから積極的に出向いて求めなければ、良書は手に入らない。ただし、一度手に入った良書は、それこそ生涯の師とも友人ともなってくれるに違いない。作家の吉田健一は、精選した良書を300冊だけ持っていたという。
 僕のように数千冊の蔵書があっても、では、若松の定義するような良書がどれだけあるか? と訊かれると、なんとも心もとない。もっとも数を読まないと、良書と出会う機会も少ないだろうから、僕の多読も無用ではないと思う。
 多読と書いたが、あるベテラン編集者から、村上さんは本を読まなさ過ぎるといわれたことがある。けっこう読書家だという自負があったので、不服そうにしていたら、その人は本の読み過ぎで眼を傷めて、ドクターストップがかかったそうだ。
「目が潰れるほど本が読みたい」――某出版社がそんなキャッチコピーで文庫のフェアをやっていた。その編集者の話を聴いて、レトリックではなく、ほんとうに本の読み過ぎで眼が潰れることがあるのだと驚いたものだった。
 そういう思いで手にとった本から良書が誕生する。

 言葉に飢える、という表現がある。たしかに言葉は心を潤す。危機にあるとき人は、些細な一言によって、消えそうだったいのちの炎をよみがえらせることさえある。
 また、言葉は非常食のような役割を果たすこともある。人は日ごろ、その存在にほとんど気を配らない。だが、危機のときそれが命綱になるのである。

 これは僕の持論だが、政治は胃袋を満たし、文学は魂を満たす。それがほんとうの政治であり、文学だ。最近はどちらも、偽物が多い気がする。

お勧め本:
『読書の力』(若松英輔著/亜紀書房)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。