宮城長順の孫弟子たち

海外に30万人以上の弟子をもつ東恩納盛男さんは今も一人稽古を欠かさない
国際沖縄剛柔流空手道連盟の最高師範・東恩納盛男(ひがおんな・もりお 1938-)は、海外65ヵ国に30万人以上の弟子をもつ、沖縄剛柔流の顔ともいえる存在だ。 続きを読む
海外に30万人以上の弟子をもつ東恩納盛男さんは今も一人稽古を欠かさない
1930年(昭和5年)、日本の空手界で最初にできた流派が剛柔流である。
剛柔流の誕生は、流祖の宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)の一番弟子であった新里仁安(しんざと・じんあん 1901-45)が他武道にまじって東京で空手演武を披露した際、流派名を聞かれて困ったことに端を発する。新里が沖縄に戻って師匠の宮城に報告すると、宮城は『武備誌』にある拳法八句の一節「法は剛柔を呑吐する」から選び取り、「剛柔流」と称したことが始まりだ。 続きを読む
戦後なぜ上地流は世界に広まったのか。沖縄に駐留していた米兵が母国に帰国し、そこから世界中に広まったと説明するのは高良信徳(前出)だ。
特にベトナム戦争時代、発進基地となった沖縄では、米兵が戦場から帰ってくると、暇をもてあましてできるだけ体を鍛えようとする風潮があり、空手道場に通ってきたという。米軍の部隊が各流派と契約して彼らに教えていた時代もあったという。 続きを読む
戦後まもなく亡くなった上地完文翁(写真左)と、二代目宗家の上地完英(写真右、66歳のころ)
上地流は、沖縄3大流派(しょうりん流・剛柔流・上地流)の一角を占め、独特の存在感を持つ。3流派の中では比較的歴史が新しいが、戦後は米国を起点に世界へと広がった。
歴史的にみても、小林流や剛柔流が日本本土に伝播し、現在の4大流派(松濤館・剛柔流・糸東流・和道流)の基礎を構成したのと比べると対照的な立ち位置だ。一例として、本土空手の主力組織といえる全日本空手道連盟において、上地流の型は指定型(空手の型試合で演武するときの対象型)に一切含まれていない。
その意味でも、上地流は沖縄独自の流派といえる。 続きを読む