構想から25年かけて実現
沖縄県議会で「空手の日」が制定されたのは2005年3月のことだった。【10月25日】を「空手の日」とすることが決議された際の文章は、
はるか700年のいにしえ、空手はこの地・沖縄で生まれた
の一文で書き起こされ、世界の空手人口がおよそ5000万人と推定されること、沖縄の文化でこれほどまでに広範な広がりを持ち、世界中の人々に影響を与え親しまれている文化はほかにないことなどが書き込まれている。 続きを読む
沖縄県議会で「空手の日」が制定されたのは2005年3月のことだった。【10月25日】を「空手の日」とすることが決議された際の文章は、
はるか700年のいにしえ、空手はこの地・沖縄で生まれた
の一文で書き起こされ、世界の空手人口がおよそ5000万人と推定されること、沖縄の文化でこれほどまでに広範な広がりを持ち、世界中の人々に影響を与え親しまれている文化はほかにないことなどが書き込まれている。 続きを読む
沖縄出身の富名腰義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)は、「船越義珍」として空手界に広くその名を残している。
幼少時は虚弱体質で気弱な性格だったといわれるが、10代の初めに同級生の父親で首里手の大家だった安里安恒(あさと・あんこう 1828-1914)に師事して克服した。当時はまだ空手修行は夜陰に乗じて秘密裡に行われていた時代で、毎夜提灯をぶらさげて安里宅との夜道を行き来した。 続きを読む
沖縄における空手の古い歴史は、文献上、検証することができないハンディを抱えている。記録が消失しており、どのような歴史の変遷をたどったかを追うことができないのだ。そのため断片的な記録を三角測量で推測するしか方法がない。多くの史料を薩摩による侵攻時に失ったという説もある。
そうした沖縄で、廃藩置県以前までは、カラテは師匠から弟子に一対一で伝授される「秘伝の武術」にほかならなかった。 続きを読む
那覇市から車を走らせて約40分。西原町の一角に黄色の原色使いの特徴的な建物が目に入る。正式名称は「沖縄県空手博物館」。1987年にオープンした空手・古武道に関する物品や資料を集めた個人資料館だ。館長を務めるのは、外間哲弘・沖縄剛柔流拳志會会長(ほかま・てつひろ 1944-)である。
ビルの1階が空手道場のスペースになっていて、階段を上った中2階部分が博物館の展示スペースだ。博物館は県立高校教諭だった外間氏が私財を投じて建設した。 続きを読む
前回取り上げた書籍『公開! 沖縄空手の真実』(2009年)の中でユニークな技法を紹介した空手家に、沖縄空手道松林流喜舎場塾の新里勝彦(しんざと・かつひこ)塾長(1939-)がいる。横に移動しながら行う首里手の代表的な鍛錬型である「ナイハンチ」を独特な腰使いで演武し、独自の解説を加えていた。
新里塾長は英文科の学生時代、19歳のとき大学の空手クラブで空手を始めた。将来アメリカに留学したときに沖縄的なものを身につけていれば何かの役に立つかもしれないくらいの考えだったという。大学卒業後、地元の中学校で3年間英語を教え、20代半ばから2年間の米国留学中は空手をやっていたことが「とても役に立った」と振り返る。帰国後、那覇市の松林流開祖・長嶺将真道場に正式入門した。 続きを読む