多様性を承認する「トポス」と宗教が果たす役割

北海道大学大学院法学研究科准教授
中島岳志

多様性が担保される社会のかたちとはどのようなものか。

民主主義における「多数者の専制」

 フランスの思想家トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』という本で、デモクラシー(民主主義)にとっていちばん重要なのは国家と個人の間のアソシエーション(中間的組織)だと強調しました。労働組合や社会団体、宗教団体といったアソシエーションへの参加を通じて、自分とは違う他者の考え方を尊重し、合意形成していくパブリック・マインド(公について考える気持ち)が醸成されていくのです。
 トクヴィルはデモクラシーにおける「多数者の専制」に警鐘を鳴らしました。人々はメディアが煽る熱狂的な気分に左右され、さまざまな個性や信仰の自由を抑圧していきがちで、それがデモクラシーのいちばんよくないところだと述べています。たとえば18世紀末にフランス革命が起きたあと、フランスではナポレオンによる専制政治が起きました。デモクラシーの盲点である「多数者の専制」を抑制するために、アソシエーションの役割が重要なのです。
 戦後の日本は、年功序列・終身雇用の会社組織をベースに社会保障制度を維持してきました。その制度設計が、1990年代に一気に崩壊しています。日経連(日本経営者団体連盟)は95年5月、「新時代の『日本的経営』 挑戦すべき方向とその具体策」というリポートを発表しました。日経連はどんな分析をしたのか。
 これからの日本の労働者を①長期蓄積能力活用型グループ(幹部候補生)②高度専門能力活用型グループ(優れた技術者や専門職)③雇用柔軟型グループ(非正規労働者)の3種類に分類しよう――というのです。①②を除き、不景気になったときにいつでも労働者のクビを切れるようにしなければ、日本はグローバル社会で戦えないと経済界は考えました。
 戦後日本は会社組織をベースとして擬似共同性を維持してきたわけですが、人々は自分が意味ある存在として位置づけられる場所「トポス」(ギリシャ語で「場所」という意味)を突然失ってしまった。
 トポスを失うことで、自分がどうしてこの場所で生きているのかわからない、のっぺりとした空間のなかで生きる人々が増えたときに、オルテガ(スペインの哲学者)が危惧した「大衆の気分化」が広がります。さらにトクヴィルが恐れた「多数者の専制」が起き、自分とは違う考え方の人々を排除しようという動きが広がってしまうのです。
 ジグムント・バウマン(ポーランドの社会学者)は、社会で起きるひとときの熱狂を「カーニバル(祝祭)化」と表現しました。大衆が気分によって熱狂し、熱狂の中身についてはすぐに忘れてしまう。まるで今の日本を指しているかのようです。別に放っておけばいい程度の話に、日本中が大騒ぎし、あっという間に忘れ去ってしまうような事例が多すぎます。
 今の日本は、多くのアソシエーションが崩壊し、底抜け状態になってしまいました。メディアでズバッと言ってくれる人が現れると、多数者の専制が起きやすい状況になっています。これがオルテガらが非常に心配した「大衆社会」です。彼らは「大衆はバカだ」といった愚民観をもっているわけではありません。トポスを失った人たちの集まりがいかに危険なのかを言っているのです。人はいっぱいいるのに孤独であるという、孤独な群衆が増える危険性についてです。
 バウマンは「カーニバル化」を「クローク化」とも表現しました。劇場のクロークルーム(荷物の預け場所)にコートやカバンを預け、観客は一体になって2時間の劇に興奮します。舞台が終わると再びクロークルームに寄り、荷物を受け取って散り散りばらばらになってしまう。
 人々が断片化された「社会のカーニバル化」「クローク化」を抑えるために、トポスの共同性が重要なのです。トポスが多様性を承認する場になってくるのではないかと思います。

ボンディングとブリッジング

 かつての日本社会は、強い結束力をもった一枚岩的共同性を維持してきました。地縁・血縁はインクルージョン(包摂)の機能を果たすと同時に、共同体の論理に異を唱える人にはエクスクルージョン(排除)が必ず働く側面もあります。地縁・血縁は、強いボンディング(結束)型のソーシャルインクルージョン(社会的包摂)なのです。
 今や日本では、地縁・血縁も会社組織や労働組合による結束も崩壊してしまいました。これからの日本では、ボンディングのみならずブリッジング(橋渡し)型の社会的機能を充実させていくべきです。
 わかりやすく言えば、町内会の存在が問題なのではなく、町内会しかない社会が弱いのです。ある日は町内会の人たちと付き合い、別の日には習い事に出かけて違う人たちと付き合う。NPOやボランティア活動をやってもいい。あちこちのソーシャルインクルージョンにたくさんハシゴがかかることによって、社会の風通しがよくなり多様性が担保されるのです。
 1950年代の創価学会は、地方から都会に出てきてよりどころも居場所もない人たちの受け皿(トポス)になりました。現在は、創立から80年以上が経過し、創価学会は宗教団体として成熟しつつあります。ボンディング型の組織に凝り固まることなく、創価学会はブリッジング型の組織として非学会員と交流したり、地域のお祭りに参加しています。これは非常によいことです。すでに学会には多様性があるのに、怖いイメージをもっている人もまだ多いので、もっと柔軟に開かれていったほうがいいと思います。

仏教における縁起と共生社会

 仏教には「五蘊(ごうん)」という考え方があります。人間には「色」(肉体、物質)、「受」(感受)、「想」(表象)、「行」(意志)、「識」(認識)という五つの構成要素があり、これら五蘊は時々刻々に変容しています。ヒンドゥー教では「梵我一如」(※注)という思想があるのですが、ブッダは「私」という存在は絶対普遍ではなく、五蘊の変容によって成り立つ「現象」だと考えました。ブッダは仏教最大の概念「縁起」を提唱します。
 五蘊の構成要素をつかさどる最大の力は「縁」です。五蘊は人に「縁って起こる」だけではありません。とてもおいしいコーヒーを飲んだことをきっかけに、コーヒー豆の原産地であるブラジルにまで行ってしまう人もいるでしょう。
 仏教はアッラーの神のような絶対者を置かず、縁起と五蘊の変容を重要視しています。絶対的な何者かによって、人間が動かされるわけではない。他者や世界は自分のなかにあらかじめ埋めこまれており、私と他者、私と世界は常に地続きである。他者や世界と関わるおかげで、自己の変容がダイナミックに起きる。これこそが仏教のすごい思想なのです。
 歴史学者の網野善彦は『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』という本を書きました。現代で使われている意味での「無縁社会」「無縁仏」「無縁墓」は「縁から切れている」という悪いイメージですが、網野が言う「無縁」という概念は悪い意味ではありません。
 仏教には「無縁の大悲」という思想があります。仏から衆生に対して、無縁の慈悲の力が平等に浴びせられる。仏教における「無縁」とは「無限の縁」という意味です。「限定された縁」「有限的な縁」としての有縁――血縁や地縁にとらわれず、すべての人々と縁を結んでいく。網野善彦は「有縁の世界は苦しい」と考えました。有縁の世界から排除された人々までも包摂していくのが、仏教で言う無縁の思想なのです。
 中世社会では、がんじがらめの地縁・血縁から抜け出した人が最後に逃げこむ「縁切り寺」がありました。限定された縁のなかで生きられない人が、無限の縁と接点をもつ寺に駆けこむことによってアジール(自由)を勝ち取ったのです。
 人々を1ヵ所に強く結びつけるボンディングが「有縁社会」、少数者の多様性までも幅広く担保するブリッジングが「無縁社会」だとするならば、今の日本に必要なのは「無縁社会」ではないでしょうか。
 もちろん僕は、地縁・血縁によるボンディングはもはや必要ないと言いたいわけではありません。ボンディングを維持したうえで、さらにブリッジングによって社会に多様な網をかけていく。
 僕は札幌で商店街の問題に取り組みましたが、もう少し広げて、寺や宗教と中間共同体のもつ可能性を、共生社会に向けて再構築していきたいと考えています。創価学会のような宗教団体の機能が高まっていけば、行き場を失った多様な人々をつなぎとめることになると思うのです。

※注 梵我一如:ブラフマン(梵=宇宙を支配する原理)とアートマン(我=自己を支配する原理)が究極的には一致すると考えるヒンドゥー教の思想。

<月刊誌『第三文明』2014年1月号より転載>

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なかじま・たけし●1975年、大阪府生まれ。大阪外国語大学外国語学部(ヒンディー語学科)卒業。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科博士課程修了。米ハーバード大学南アジア研究所の研究員を経て現職。専門は南アジア地域研究、近代政治思想史。99年にインドを訪れ、ヒンドゥー・ナショナリストとの共同生活を通じて宗教とナショナリズムについて研究。2005年に著書『中村屋のボース』で大佛次郎論壇賞を受賞。著書多数。近著に『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『岩波茂雄――リベラル・ナショナリストの肖像』など。