メディアが広めたウソが「事実化」してしまう
読者諸氏は、以下の話をおそらくどこかで耳にしたことがあるだろう。
〝1956年のアメリカの映画館で、広告業者がある実験を試みた。上映するフィルムの中に、3000分の1秒というごく短い間だけ、「ポップコーンを食べろ」「コカ・コーラを飲め」と書かれた画面を5分おきに挿入したのだ。
人間の視覚では3000分の1秒の映像は知覚できないため、観客はその画面を意識しない。しかし、このメッセージは無意識層に働きかけた。6週間にわたってつづけられた実験の結果、その映画館の売店でのポップコーンの売上は57.5%、コカ・コーラの売上は18.1%、それまでよりも上がったのだ〟
――サブリミナル(閾下刺激)効果について論じるときに、よく言及されるエピソードである。
だが、じつはこれは、ジェイムズ・ヴィカリーという広告業者がでっち上げた話だった。ヴィカリーは、サブリミナル広告用の装置で一ひと儲けしようとしたのである。
もっともらしい数字が並べられているが、じつはこの有名な実験には、元になった論文も報告も存在しない。学会で発表されておらず、そもそも実験そのものが行われていなかった。ヴィカリーが雑誌や新聞で語ったウソが広まっただけだったのだ。
以上の話を、私は鈴木光太郎(心理学者・新潟大学教授)の著書『オオカミ少女はいなかった――心理学の神話をめぐる冒険』(新曜社)で知った。
鈴木は同書の第2章「まぼろしのサブリミナル」で、この実験がでっち上げであることをくわしく論証している。それによれば、そもそも1950年代の映像技術では、3000分の1秒だけ別の映像を映し出すこと自体、不可能であったという。
だが、1人の広告屋がでっち上げた実験が、半世紀以上経った現在でさえ、多くの人に事実として受け止められている。
この例が示すように、マスメディアが一度大々的に報じたことは、たとえデマであっても〝ひとり歩き〟をし、いつしか「事実として定着してしまう」のである。
そのような事例は、1999年に米国で起きた「コロンバイン高校銃乱射事件」をめぐっても起きていた。
コロンバイン高校に通っていた2人の男子生徒が、生徒12名と教師1名を射殺して自殺したこの衝撃的な事件は、いまなお記憶に新しい。
当初、この事件をめぐっては多くの憶測報道が氾濫した。たとえば、事件が起きた4月20日がたまたまアドルフ・ヒトラーの誕生日であることから、「犯人の少年2人はナチズムに影響されていた」と憶測するようなたぐいである。
そうした憶測の1つに、「犯人の少年はマリリン・マンソンのファンで、マンソンの歌に影響されて事件を起こした」というものがあった。
自ら「アンチクライスト(反キリスト)・スーパースター」を名乗り、性と暴力を歌う過激なロックで知られるマリリン・マンソンは、以前からキリスト教保守派に忌み嫌われていた。そこに起きたこの事件が格好の引き金となり、マンソンに対する過剰なバッシングが行われた。この事件を扱ったマイケル・ムーアのドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』にも、そのバッシングの一端が描かれている。
のちに、犯人2人はマンソンのファンではなかったこと、したがってマンソンの歌に影響されて事件を起こしたわけではないことが判明したが、ほとんど報道されなかった。そのため、10年以上が経ったいまでも、「犯人はマリリン・マンソンの影響で乱射事件を起こした」と信じている人が多いのだ。
情報の「量」で、デマが真実を圧倒してしまう
情報の力は「質×量」で決まる。質の高い情報であっても流通量で負けてしまえば、質の低い情報のほうが定着してしまうのだ。
デマと真実を比べれば、真実のほうが「質が高い」に決まっている。それでも、デマが圧倒的物量で流通すれば、多くの人はデマのほうを信じてしまうのである。
さきに挙げた2つの例でも、デマがマスメディアを通じて大量に流通したのに比べ、「デマだった」とする訂正報道は微量でしかなかった。
それは、1つにはメディア側が誤報を認めたがらないためであろう。
日本でのメディアをめぐる名誉毀損訴訟もしかり。デマ報道をされた側がメディアを訴え、勝訴しても、謝罪・訂正記事は誌面の片隅に小さく載るだけだ。それまでに、デマ記事のタイトルは、新聞広告や車内吊り広告などを通じて日本中に広まってしまっている。ここにも、デマと真実の悲しいほどの物量差がある。
そのような構図があるから、「デマは一度広まってしまうと回復不可能」なのである。あたかも、海に入れた毒水が回収不可能であるように……。
マスメディアによるデマが完璧に回復された事例は、管見の範囲では1つしかない。それは、松本サリン事件の被害者でありながら、当初「犯人視報道」の餌食となった河野義行さんの例である。
河野さんの場合、のちにオウム真理教が真犯人であることが判明し、しかもその真実のほうが圧倒的物量で報道されたため、氏が犯人であるというデマは完全に打ち消された。きわめて特殊な事例であり、それほど大量に真実が流通しないかぎり、一度広まったデマは打ち消せないということでもある。悲しいかな、情報量の差によって、デマが真実を圧倒してしまうのだ。
そして、デマが物量で真実を駆逐してしまう傾向は、インターネット時代になってからいっそう顕著になっている。編集者や校正者などのチェックによって正確性がまがりなりにも担保されている既存メディアと比べ、個々人が自由に情報発信できるネットは、デマ情報の含有率が高いからである。
いみじくも、ネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」の開設者・ひろゆき(西村博之)氏は、かつて「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(ネット掲示板を使いこなすのは)難しい」と発言した。
ネット上には週刊誌・タブロイド紙以上に大量のデマが流通し、その伝播速度も速い。そして、一度ネット上に散乱したデマ情報をすべて削除することは、事実上不可能である。「デマの回復不可能性」は、ネット時代の本格的到来から、いっそう深刻な問題になったのだ。
では、どうすればよいのか?
「デマのない世界」は、残念ながら絵空事でしかない。我々一人ひとりが、「大量に流通している情報が真実とはかぎらない」と肝に銘じ、情報の「質」を見極めるリテラシーを高めていくしかないだろう。
その積み重ねこそが、迂遠のように見えても、デマを駆逐する唯一の方途だ。賢き民衆のクチコミだけが、悪しきマスコミを打ち破るのである。
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