安全保障法制の議論における望ましい憲法解釈の作法について京都大学大学院教授の大石眞氏に聞いた。
あるべき解釈者の姿勢
安全保障法制の議論の過程では、違憲だと主張した憲法学者が多く出てきました。その中には過去において、集団的自衛権の行使に賛成していた人もいました。憲法9条に照らして違憲だと主張するのであれば、一貫して違憲を主張するのが筋ですが、賛成派から反対派へと急に転じたことは不思議です。
また、もう一つ不思議に感じたことは、政府が法案を出した際に「解釈の変更はけしからん」といった声があがったことです。これは憲法9条だから解釈変更が道理にはずれるといっているのか、そもそも政府が見解を変更すること自体がけしからんといっているのかに分かれますが、話を聞いてみると後者だという人たちが少なくありません。私はこうした後者の主張に対しては非常に懐疑的です。
なぜなら、政府は憲法制定時に解釈を作るとともに、これまでにも法案の提出に当たって何度も解釈を練り上げてきました。ですから、そのもともとの憲法制定時やその後の解釈もけしからんというのなら理解できますが、以前の解釈や変更はよいが、今回の変更はダメだというのはおかしな話です。そもそもある種の憲法解釈を前提にしなければ、およそ法案など何も出せなくなってしまいます。それでは内閣法制局の役割もなくなってしまいます。
内閣法制局が解釈をころころと変えることを危惧する声もありましたが、そんなことをして内閣が自らを脅かすようなことは現実に考えられません。にもかかわらず、あまりにも野党がそのことに言及しているさまを見ると、実は、自分たちが解釈を変えたいのではないかと勘ぐりたくなるくらいです。
ともあれ、今回(2014年7月)の政府解釈に関しては、限りなく個別的自衛権に近い範疇の話であると思いますし、野放しに自衛隊を派遣するような話ではないわけですから、それを大転換だと批判したことは不思議です。
過去に賛成していた憲法学者がなぜ途中で主張を転じたのか、実際のところは不明ですが、そこにはある種の〝政権に対するスタンス〟が垣間見られます。しかし、我々研究者としては、特定の政権へのスタンスでものを言うべきではありません。もし、そこを誤ってしまえば、学者や研究者としての範囲を逸脱することになります。
憲法学者に求められることは、国民の生命・自由や財産などを守るという前提の下に、時代とともに変化する規範を、現実の出来事に適切にあてはめていく、そうした責任ある解釈者の姿勢であると思います。
明確に違憲といえない以上は合憲
安保法制と憲法9条の関係で重要だと感じた点は、9条を解釈する作法の問題です。残念ながら、このことについてマスコミは一切触れていませんでした。
憲法あるいは憲法の起草者・制定者は、過去にあった事象に対して判断や評価を行うわけですから、憲法の条項はそれを踏まえて作られています。ですから、憲法が作られた時に起こったことがない事象に対して、どのように考えていたかを想像し、断定することは、普通では考えられないことです。
日本国憲法制定時に観念されていた自衛権については、軍国主義を経験した上から侵略戦争を非とする個別的自衛権だけを認めるものであったことはいうまでもありません。一方で、日本が国連憲章を国内法化して国際連合に加盟したのが、1956年の日ソ共同宣言の直後であったことから、国連憲章の51条に謳われている「個別的及び集団的自衛の固有の権利」の意義や集団的自衛権と憲法との関係について、憲法制定時の段階で明確な認識を共有していたとはとうてい考えにくいと思います。
つまり、憲法9条によって、個別的自衛権の在り方については、明確な態度決定を示したと考えることができますが、集団的自衛権の問題については、一義的で明確な規範を定めたものではないと考える余地があるということです。
憲法解釈は安定しているほうが望ましいとは思いますが、国内的に完結する規範とちがって、第9条の平和主義は国際情勢に左右される面が強く、それを取り巻く国際環境は絶えず変化しています。実際、PKO(国連平和維持活動)のように、憲法制定時には予想もしなかった事象が生じてくるのが事実です。賛成派・反対派に共通するのは、条文があれば過度に依拠し、条文がなければすべて否認するという意味で、条文至上主義があるように思いますが、そうした姿勢では不十分です。
憲法改正の手続きが定められているのも、〝憲法がすべてお見通し〟というわけではないからです。だからこそ、少し引いた目線で見ながら解釈変更の余地を残し、国際情勢を踏まえながら憲法の規範との整合性を取っていくことが、望ましい憲法解釈の作法であると考えます。
私のスタンスとしては、憲法制定の後に出てきた事象については、明確に禁止規定がない以上は、一義的に違憲とも合憲ともいえる筋合いのものではなく、その意味で違憲とはいえない以上は合憲であるという考えです。こうした観点が憲法解釈の議論において必要だと思います。PKO協力法の制定の時も今回より激しい議論がありましたが、今日ではPKOへの協力は広く国民に支持されているように思います。
与野党ともに議論を複雑にした
安保法制の議論において、その中身が深まらなかったことはたいへん残念でした。野党は「戦争法案」とレッテルを貼りましたが、「戦争法案」などという国民を惑わすようなネーミングを国民の代表である国会議員が使うべきではなかったと思います。また、安保法制を審議する委員会の場で野党議員が報道カメラに向けてプラカードを掲げる姿が見られましたが、街頭行動と同じことを言論の府の中で平然と行っていたことも、きわめて違和感のある行動でした。さらに、違和感といえば、安倍首相のヤジなども品性に欠けるもので、首相としては控えてほしかったと思います。
いずれにしても、こうした野党の批判を招き、中身の議論が進まなかった要因として、政府の説明の下手さがあったと思います。特に政府が今回の安保法制の必要性を説明するQ&Aの中で、ホルムズ海峡での機雷掃海を具体的な事例として挙げたことなどは、議論の道筋を誤らせる大きな原因になったと思います。普通に考えれば、ホルムズ海峡で起こったことが日本の存立を直ちに脅かす事態になるとは想像しがたいものです。
本来、法案の合憲性などの問題と具体的な事象へのあてはめの問題は、別のことがらであるのに、想像しがたい事例を持ちだしたことによって、それが表に出過ぎ、自衛隊がどんどん海外に出ていくかのような印象を与えてしまいました。ごく一部の一つのあてはめが、法案そのものの中身であるかのように誤解を招いてしまったことは、今回の議論における政府側の大きなミスであったと思います。
その中にあって、公明党の山口代表は与党側の質問に立ち、「ホルムズ海峡は想定せず」ということの確認を政府からとり、撤回させましたが、このように多くの人が誤解しかねない部分を問いただしていく姿勢が与党の中にあったことは、評価されるべきです。
ともあれ、今回起こった一部の野党・マスコミによる反対の大合唱は、昔の安保闘争の時にも同じように起こりましたし、消費税の導入やPKO法案の審議の時などにも起こりました。大局的に見ると、同じことの繰り返しのようにも感じます。
これらがいずれも時間の経過とともに、多くの人から評価を得ていったことを考えると、今回の安保法制についても一定の期間の経過とともに評価されていくものだと思います。
ただ、日本を取り巻く国際環境の変化やこれに伴う海域での緊張などというものは、多くの国民にとってなかなか実感することができず、その分理解しにくい面があることもたしかです。そうした難しい問題領域であることをしっかりと踏まえて、政府・与党としては、今後も国民への理解を深める努力を続ける必要があると思います。
<月刊誌『第三文明』2015年12月号より転載>